「とにかく支那事変」だった陸軍〜南京から重慶へ首都移転した蒋介石・「陸軍の統括者」ではなかった東條陸軍大臣・天皇輔弼役の参謀総長〜|陸海軍の迷走20・日米開戦と真珠湾へ

前回は「近衛首相の昭和天皇への「新国策」説明〜曖昧でモヤモヤの国策・ようやく決定した国家の新たな大方針・御前会議での説明へ〜」の話でした。

目次

「陸軍の統括者」ではなかった東條陸軍大臣:天皇輔弼役の参謀総長

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左上から反時計回りに、東條英機 陸相、杉山元 参謀総長、永野修身 軍令部総長及川古志郎 海軍大臣(国立国会図書館、Wikipedia)

1941年6月22日に惹起した独ソ戦に直面して、国策を転換させる必要に迫られた大日本帝国。

国家の方針は、原則として「政治が全ての上」であり、「軍部は政治に従う」のが普通の国家でした。

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大本営組織図(歴史人2019年9月号別冊 KKベストセラーズ)

ところが、明治憲法によると「政府と軍部・大本営が対等な立場」でした。

そのため、この「国策の転換」には、軍部の意見が強く、陸海軍大臣も参加して討議しました。

陸海軍部新国策 決定:1941年6月27日(抜粋)

第二の二

帝国は自存自衛上南方用域に対する各般の施策を促進す

之が為対英米戦準備を整へ、先づ「対仏印泰施策要項」及「南方施策促進に関する件」に拠り先づ「南方施策促進に関する件」に拠り)仏印及泰に対する諸方策を完遂し以て南方進出の体制を強化す帝国は本号目的達成の為対英米戦を辞せず

第二の三

独ソ戦に対しては三国枢軸の精神を基調とするも暫く之に介入することなく密かに対ソ武力的準備を整へ自主的に対処す。此の間固より周密なる用意を以て外交交渉を行う。

独ソ戦争の推移帝国の為(極めて)有利に進展せば武力を行使して北方問題を解決し北辺の安定を確保す

第二の四

前号遂行に方り各種の施策就中武力行使の決定に際しては対英米戦争の基本態勢の保持に大なる支障なからしむ

青文字が削除部分、黄文字が修正・追記部分です。

そして「決定した」ものの、「曖昧な部分ばかり」であった帝国の新国策。

この新国策を昭和天皇に御前会議で直接説明する立場は、まずは帝国政府の代表者・近衛首相でした。

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1941年6月頃の日本政府・大本営幹部:左上から時計回りに、松岡洋右外相、近衛文麿首相、永野修身軍令部総長、杉山元参謀総長(Wikipedia)

そして、続いて陸海軍の統帥部の代表者である杉山参謀総長と永野軍令部総長が、天皇に説明します。

東條英機

・・・・・

当時、陸軍大臣であった東條英機は、陸軍の統帥においては「参謀総長の下位」にありました。

「帝国政府大臣の一人」に過ぎない立場であった東條陸軍大臣は、「陸軍の統括者」ではなかったのでした。

後に首相となり、さらに「参謀総長を兼務」した東條英機。

東條英機

やはり参謀総長に
ならねば、陸軍は統括できんな・・・

この頃、このように感じたと考えます。

「とにかく支那事変」だった陸軍:南京から重慶へ首都移転した蒋介石

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大東亜戦争全史1(服部卓四郎 著、鱒書房)

この御前会議の発言は、「大東亜戦争全史1巻」に細かく描写されています。

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昭和天皇(Wikipedia)
昭和天皇

・・・・・

近衛首相に続いて、杉山参謀総長が昭和天皇に説明します。

杉山元

帝国と致しましては
重慶政権に対する直接圧迫を・・・

杉山元

増強致しまする反面、
南方に進出致しまして・・・

杉山元

重慶政権を背後より支援し
その抗戦意思を増長せしめつつある英米勢力と・・・

杉山元

重慶政権との連鎖を
分断致しまする。

杉山元

このことは、事変解決を
促進する為極めて必要なる措置です。

後世から考えれば、この頃は陸海軍ともに「対米戦の準備」こそ最重要でした。

その一方で、大日本帝国と当時の中国・蒋介石との死闘に「終止符を打つ」必要に迫られていた陸軍。

1937年に勃発した盧溝橋事件に痰を発して始まった、日中戦争。

当時の大日本帝国政府は、中国政府に対して宣戦布告しなかったため、支那事変と呼称しました。

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満洲国(Wikipedia)

1931年の満洲事変に続き、中国大陸への進撃を続けていた帝国陸軍。

支那事変開始直後から、破竹の勢いで進撃を続け、蒋介石の国民政府首都・南京を陥落させました。

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蒋介石 中国国民政府主席(Wikipedia)
蒋介石

おのれ、日本軍めが!
南京を守れん!

蒋介石

やむを得ん!
重慶に首都機能を移す!

「国民政府首都の南京を陥落させたら、支那事変は終了」と考えていた帝国陸軍。

そのため、支那事変勃発時に陸軍大臣だった杉山元は、「甘い観測」をもとに、

杉山元

支那事変は
二ヶ月で片付きます!

昭和天皇に対して、「二ヶ月での勝利」を宣言していました。

それが、支那事変勃発から4年経過して1941年となっていた当時、

昭和天皇

お前は二ヶ月、と言っていたのに
もう四年経つではないか!

このように昭和天皇から「叱責」を受けていた杉山元。

この時は、参謀総長となり「陸軍統帥部トップ」となっていた杉山にとっては、

杉山元

何よりも支那事変を
解決して、勝利せねば・・・

支那事変に「ピリオド打つ」ことが最優先だったのでした。

そして、1941年7月2日の御前会議での杉山参謀総長の発言が続きます。

杉山元

三国枢軸の精神に基き行動すべきは
勿論で御座いまするが・・・

杉山元

帝国は目下支那事変の処理に邁進し、
而も英米との間に機微なる関係にあるますので・・・

杉山元

暫く之(独ソ戦)に介入せざるが
適当と存ぜられますが・・・

杉山元

独ソ戦の推移が帝国の為有利に
進展致しましたる場合・・・

杉山元

武力を行使して北方問題を解決し
北辺の安全を確保致しまするは・・・

杉山元

帝国として正に執るべき喫緊の
方策と存じます。

とにかく「支那事変優先」であった帝国陸軍。

「まずは支那を解決しなければ、進めようがない」状況を表していました。

次回は、永野軍令部総長の説明です。

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