前回は「「世界中に啖呵切った」松岡洋右の曖昧路線〜置き忘れられた日米交渉・「日仏印の共同防衛」の南部進駐望む帝国・米国の意思の早期確定〜」の話でした。
「東へ侵攻」を目論んだ山本長官:西と南と東の三方作戦

1942年6月5日から6月7日(日本時間、以下同)に惹起した、ミッドウェー海戦。

1941年12月8日に真珠湾奇襲攻撃を起こして、対米戦を始めた大日本帝国は一気に領土を拡大しました。
真珠湾奇襲攻撃以降、大日本帝国は、従前から続けていた日中戦争(支那事変)を拡大しました。
南部仏印など東南アジアを含め、主に「西へ侵攻する」ことを基軸としていた帝国の戦略。
「真珠湾」以降は、「西へ」に加えて「南へ」を一気に拡大しました。


強大な米海軍に
緒戦で打撃を与えるのだ!
「真珠湾」は「東へ侵攻」の考え方にも見えますが、侵攻ではありませんでした。
当初から、「ハワイ攻略」は予定されてなく、「米海軍の艦艇を攻撃」が目的だった「真珠湾」。



軍令部としては、
南方攻略を軸としたい・・・
真珠湾奇襲攻撃に対し、「帝国海軍の侵攻先は南」を主軸としていた軍令部の猛反発を受けた山本長官。
真珠湾奇襲攻撃に対する、山本長官や伊藤次長に関する話を上記リンクでご紹介しています。



とにかく、米海軍が
しばらく大きな作戦出来ないようにするのだ!
「米海軍に大打撃を与える」ことが目的であり、「東へ侵攻」ではなかった「真珠湾」。



我が機動部隊に
敵はいない!
「真珠湾」の後、西はインド洋まで突き進み、周囲を荒らしまわった南雲機動部隊。
空母六隻という史上空前の大部隊を有していた第一航空艦隊は、世界最強艦隊でした。
大日本帝国にとって、「西と南へ」に加えて「東へ」を追加した「ミッドウェー」でした。
つまり、「西と南と東の三方作戦」を同時にしようとしたのが、「ミッドウェー」でした。
松岡洋右外相の運命の予言「南へゆくのは危険」


そもそも、大日本帝国にとって「どの方向に侵攻するのか」は、陸海軍ともに最重要課題でした。
どの国家にとっても、戦争をするならば、「どの方向に、どの国に侵攻するのか」は最重要です。
1941年6月頃、対米英戦も見据えていた帝国陸海軍大本営。



なんとしても、
支那を、早々に屈服させねば・・・
1931年に引き起こした満州事変を境に、支那(中国)全土に戦線を広げていた帝国陸軍。
中国大陸での戦争であるため、主軸は陸軍ですが、海軍も大いに戦っていました。


海軍航空隊は、支那方面の攻撃に力を入れ、時の南京政府首都・重慶などを爆撃していました。


主に日本陸軍の猛烈な攻勢によって、首都南京が陥落した南京政府首領・蒋介石は、



おのれ、
日本めが・・・
日清・日露の戦いで「アジアのトップスター」に躍り出た明治末期の大日本帝国。
「白人には勝てない」と考えていたアジア人にとって、大日本帝国は「アジアの守護神」となりました。
そして、大日本帝国に留学し、帝国陸軍に所属した経験もある蒋介石は、日本語も堪能でした。



ならば、首都を
移すまで!
湾岸部にあった南京は、水運などの面から、とても良い立地にありましたが、



湾岸部に近いと、
日本の爆撃を受けやすい・・・



ならば、思い切って
奥地の重慶を首都とする!
重慶は、四川省成都に近く、かなりの内陸部です。



ならば、海軍航空隊で
重慶を爆撃!
そして、当時、山口多聞と大西瀧治郎の海兵同期二人で第一連合航空隊を結成し、



とにかく、
爆撃隊を多数送り込む!
重慶に対して、猛烈な爆撃を続けていました。
このように陸海軍の多数が、支那各地で戦闘を続けており、



なんとか、なんとか早く
支那を片付けねば・・・
特に陸軍は、面子上も戦略上も、「早期の支那事変解決」が喫緊の課題でした。
そして、1941年6月頃の陸海軍と政府の連絡会議において、「南へ侵攻」が基軸となりました。


この頃の大本営内部の話が、大東亜戦争全史1(服部卓四郎 著、鱒書房)に描かれています。
「南進決定」に対して、松岡外相は「運命の予言」をしました。



我輩は数年先の予言をして、
的中せぬことはない。



南に手をつければ、
大事になると我輩は予測する。



統帥部長は、それがないと
保障出来るか!



英雄は頭を
転向する。



我輩は先般南進論を述べたるも、
今は北方に転向する次第である!
この予言は、それまでの松岡の政策から考えると「不思議な予言」でもありました。


この会議の直前、1941年4月13日に、自ら主導して日ソ中立条約を締結した松岡洋右。
上の調印書には、日本側として松岡のサインがあります。



南に進んだら、
帝国は破滅する危険がある!
それにも関わらず、「北進論=ソビエト侵攻論」を強行主張した松岡。
そして、ある意味で、歴史は「松岡の予言通り」となりました。