「世界中に啖呵切った」松岡洋右の曖昧路線〜置き忘れられた日米交渉・「日仏印の共同防衛」の南部進駐望む帝国・米国の意思の早期確定〜|Midwayの咆哮3・ミッドウェー海戦

前回は「ミッドウェー作戦を「やむなく承認した」永野総長の真意〜強行した山本長官・超強硬派だった永野修身・蘭印仏印への進駐と基地〜」の話でした。

目次

「日仏印の共同防衛」の南部進駐望む帝国:米国の意思の早期確定

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左上から時計回りに、Adolf Hitler独総統、Winston Churchill英国首相、Franklin Roosebelt米大統領、東條英機 首相(Wikipedia)

第二次世界大戦・太平洋戦争において、大日本帝国が対米戦に踏み切った理由は様々です。

1941年12月8日(日本時間)に、真珠湾奇襲攻撃と同時にマレーなどでも一気に戦火を広げた帝国。

1941年6月頃、大日本帝国は日中戦争(支那事変)の拡大化と、米国の圧力に悩んでいました。

1939年9月1日に、ドイツが始めた第二次世界大戦から1年半以上経過した、この時期。

Roosebelt

我がUnitesd Statesは、
UKとChinaを支援しよう・・・

友邦であり続ける大英帝国の壊滅的危機に加え、中国からも支援の要請が舞い込んでいた米国。

表立って参戦はしていませんでしたが、大英帝国や中国に対して莫大な武器などの支援を行いつつ、

Roosebelt

我がUnitesd Statesは、
いつ、どのように参戦するか・・・

ルーズベルト大統領は、この1941年6月頃には「既に参戦の意思を固めていた」とも言われています。

この「参戦の意思」に関しては、公式の記録がありません。

様々な意見がある中、前後の状況から、筆者も「ルーズベルト大統領は参戦を固めていた」と考えます。

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大東亜戦争全史1(服部卓四郎 著、鱒書房)

この頃の経緯に関しては、多数の書籍が出ていますが、大日本帝国の状況を見てみましょう。

戦後直後、服部卓四郎大佐が作成した、大東亜戦争全史は「大日本帝国の公式記録の一つ」です。

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1941年6月頃の日本政府・大本営幹部:左上から時計回りに、近衛文麿首相、松岡洋右外相、永野修身軍令部総長、杉山元参謀総長(Wikipedia)

1941年6月頃は、政府と軍部が度々協議を重ね、南部進駐を協議していました。

杉山元

進駐は英米の圧迫に対する
日仏印の共同防衛であると言うことを・・・

杉山元

了解させれば、
応諾するのではないか?

松岡洋右

然り。進駐に応じない場合、
これを押し切って進駐することは不信である。

南部仏印進駐に関して、「日仏印の共同防衛」として進めたかったのが軍部と政府の本音でした。

杉山元

進駐の為には、
支那(中国)より兵力を転用し、

杉山元

又船舶を集めなければ
ならぬ。

杉山元

やがて雨期に入るゆえ、
成るべく早くやった方が宜しい。

永野修身

準備はやっておいて、
愈々武力を行使しなければならぬことになった時、

永野修身

(天皇の)御許しを得ては
どうか?

杉山元

陸軍はそうは
行かぬ!

当初は永野軍令部総長の方が強硬でしたが、この頃は陸軍の方が強硬でした。

「世界中に啖呵切った」松岡洋右の曖昧路線:置き忘れられた日米交渉

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左上から時計回りに、Winston Churchill英首相、J.Stalinソビエト連邦指導者(書記長)、Franklin Roosebelt米大統領、Adolf Hitler独総統(Wikipedia)

この1941年6月頃、世界中の視線は、はっきりと欧州に向かっていました。

Hitler

我がGermanyが
Europeを制圧する!

Hitler

そして、西のEuropeは
残るのは、United Kigdomのみ・・・

大英帝国は、必死にドイツ帝国に反撃を続けていましたが、

Churchill

おのれ、Hitler!
我がUKは絶対に負けん!

どこからみても、「ドイツが有利」である状況でした。

この中、ドイツの「独ソ不可侵条約を破棄して、ソ連侵攻」が濃厚になっていました。

松岡洋右

独ソ開戦もあり、
これ(進駐)を検討する必要はないか。

ヒトラーからは、独ソ戦の正式な連絡はありませんでした。

松岡洋右

リッペンドロップ外相は、
「今なら、ソ連を3,4ヶ月で倒せる」と言っておったし・・・

非公式には「独ソ戦開戦」の打診を受けていた、大日本帝国政府でした。

この「同盟国でありながら、極めて重要な事項=独ソ戦」の開始時期が曖昧であったこと。

Hitler

Japanは、何を決定するにも
時間がかかりすぎる・・・

Hitler

三国同盟締結にも、
時間がかかり過ぎ、時機を逸した・・・

Hitler

Japanなどに、Soviet侵攻を
通知しても、メリットはない!

このように「大日本帝国を軽くみていた」に違いないのが、ヒトラーの基本理念でした。

この「独ソ戦の有無や開始時期」は、全てが「ヒトラー次第」であった当時。

松岡洋右

本当に、ドイツがソビエトに
侵攻するかは、確実ではないが・・・

大日本帝国の方針にも甚大な影響を与えるため、松岡外相はハッキリとドイツに伝えるべきでした。

松岡洋右(架空)

ドイツ帝国がソビエトに
侵攻するか否かを、ハッキリとドイツ政府は答えよ!

このように、ドイツ政府に正式に通告を出すべきでした。

松岡洋右(架空)

ハッキリと答えぬならば、
三国同盟は考え直す必要がある!

三国同盟を強行に進めた松岡外相は、このように「ドイツとの結束」に関して責任を持つべき立場でした。

これ以前には、国際連盟を脱退した「世界中に啖呵切った」実績を持つ松岡。

ある意味で、「超自信家」でありましたが、ドイツに対しては「曖昧路線」でした。

ところが、この「独ソ戦が曖昧」なまま、大日本帝国政府と大本営は、空論を続けました。

大東亜戦争全史

この頃、大本営陸海軍部は、
独ソ開戦に伴う全般国策の討議に忙殺せられ・・・

大東亜戦争全史

又、日米交渉問題は、米側からの
対案未着のまま、置き忘れられた状態にあった・・・

大日本帝国にとって、最も重要な国家は、どう考えても米国でした。

その米国との交渉が「置き忘れられた状態」となった、1941年6月の大本営と政府。

この「日本的曖昧さ」が、「ミッドウェーの根幹的問題」に繋がったと考えます。

次回は上記リンクです。

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