清洲城の若き信長と濃姫像〜「全てが謎」の濃姫のイメージ・「金ピカ」信長像と織田家の圧倒的経済力・残存する信長時代の清洲〜|尾張・清洲城5

前回は「美しい水都だった清洲城〜「銭を運ぶ」水運を重視した織田信長・「戦国の大梟雄」信秀と道三の打算的同盟〜」の話でした。

目次

「金ピカ」信長像と織田家の圧倒的経済力:残存する信長時代の清洲

New Historical Voyage
清洲城(新歴史紀行)

清洲城内を登ってゆくと、天守閣の最上層からは、清洲周辺を眺めることが出来ます。

名古屋駅から電車で7分ほどの位置にある清洲は、「名古屋から極めて近い」場所にあります。

New Historical Voyage
清洲城から見た名古屋駅周辺(新歴史紀行)

もともと大都市であり、近年大規模開発が続く名古屋駅周辺は、大きなビルが立ち並びます。

この状況と比較すると、やや寂しいくらいの街であるのが、「かつての水都・清洲」です。

現在の清洲城のすぐ脇には、今も川が流れています。

New Historical Voyage
清洲城(新歴史紀行)

この川と繋がっていた、輝かしい水都であった「かつての清洲」を思い起こさせます。

この川を跨ぐように配置された清洲城入り口へ続く、赤い太鼓橋が清洲城のトレードマークです。

New Historical Voyage
清洲城(新歴史紀行)

天守閣最上階の欄干では、一周することが出来ます。

現在では、大きな街ではなくなった清洲周辺には、高いビルが少ないです。

かつての尾張国の中心が、完全に名古屋に移ってしまった事実は少し寂しいですが、周囲がよく見えます。

江戸時代から現代にかけて、尾張・愛知県の中心が名古屋に移りました。

そのため、清洲周辺は「信長の頃のまま」と考えられます。

New Historical Voyage
清洲城(新歴史紀行)

この天守閣最上階には、岐阜城駅前同様に金ピカの織田信長像があります。

「金ピカ」は秀吉の趣味であり、信長のイメージとは少し異なると筆者は考えます。

一方で、戦国時代において、「銭の流通」を最もよく理解していた信長。

織田信長

我が織田家は、他のどの大名よりも
現金をたくさん持っているのだ!

信長はじめとする超強力な家臣団のパワーと圧倒的経済力で、戦国時代を席巻したのが織田家でした。

清洲城の若き信長と濃姫像:「全てが謎」の濃姫のイメージ

New Historical Voyage
清洲城(新歴史紀行)

清洲城を出ると、「信長公銅像への道」が小さな標識で示されています。

New Historical Voyage
清洲城(新歴史紀行)

そして、鉄道の鉄橋の下をくぐると公園があり、信長と濃姫の銅像に出会えます。

New Historical Voyage
清洲城(新歴史紀行)

かなり賑わっている清洲城と違い、この信長+濃姫像周辺は、かなり人が少ないです。

「戦国最大の大スター」信長と正妻・濃姫の銅像にしては、少し寂しい状況ですが、

Yoshitaka Uchino

歴史好きにとっては、
ゆっくり信長+濃姫像を楽しめます。

New Historical Voyage
清洲城(新歴史紀行)

先ほどの天守閣最上部の「金ピカ」信長は、織田家最盛期から晩年の信長のイメージと思われます。

対して、ここにある織田信長像は、明らかに若い頃の信長のイメージです。

New Historical Voyage
左上から時計回りに、戦国大名 織田信長、今川義元、上杉謙信、武田信玄(歴史群像シリーズ 図説・戦国武将118 学研、Wikipedia)
織田信長

よしっ!
今川義元の本陣を攻撃する!

今川義元

ま、まさか・・・
この義元が・・・

桶狭間の戦いで、遥か格上であった大大名・今川義元を討ち取った織田信長。

名前生年
毛利元就1497年
北条氏康1515年
今川義元1519年
武田信玄1521年
長尾景虎(上杉謙信)1530年
織田信長1534年
島津義弘1535年
羽柴(豊臣)秀吉1537年
徳川家康1542年
戦国大名の生年

戦国のニュースターの、華やかすぎるデビュー戦が桶狭間の戦いでした。

今川義元に関する話を、上記リンクでご紹介しています。

New Historical Voyage
清洲城(新歴史紀行)

信長のすぐ脇で、寄り添って立っているのが濃姫の銅像です。

戦国の最大のスター・織田信長の正妻であり、戦国最大の梟雄・斎藤道三の娘である濃姫。

それにも関わらず、濃姫に関しては資料が極めて少なく、ほとんどが謎に包まれた存在となっています。

「帰蝶」とも称される濃姫ですが、この時代の女性の名前は「平仮名の名前」が多く、やや不自然です。

そのため、「帰蝶」という名は、後世の創作である可能性が高いと考えます。

信長との子どもがいなかった説が有力であり、早期に亡くなってしまった説もある濃姫。

「美から来た」の意味で濃姫と呼ばれており、この名称自体は高貴さと可愛らしさが出ています。

そのため、筆者は「濃姫」の名称で良いと考えています。

New Historical Voyage
清洲城(新歴史紀行)

いずれにしても、信長との結婚後の様子が全く不明瞭である濃姫。

濃姫

私は斎藤道三の娘で、
信長殿と結婚した濃姫です。

本能寺の変で信長横死後に、急速に台頭した羽柴(豊臣)秀吉の奥方である高台院・寧々とは大違いです。

新歴史紀行
高台院(おね・ねねの方)(Wikipedia)

豊臣政権樹立のプロセスから、関ヶ原の合戦の頃まで強力な政治力を有した高台院。

それに対して、天下人・織田信長の正妻ながら、ほとんどが謎である濃姫。

早期死亡説、本能寺の変で信長に殉じた説、など多数の説があります。

歴史好き、戦国ファンの視点から見れば、「本能寺の変で信長と共に戦死」説を採りたいです。

一方で、この説は一次資料等には全く見られない説であり、「小説向けの話」です。

いずれにしても、もう少し信長公記などに登場しても良いはず、登場するべき存在の濃姫。

一方で、この時代は女性の公的立場は非常に限られていたので、やむを得ないかもしれません。

むしろ、「正妻が登場しすぎる」のが、羽柴(豊臣)秀吉であるとも言えます。

New Historical Voyage
清洲城(新歴史紀行)

信長と濃姫の銅像の近くには、敦盛を祀った記念碑があります。

織田信長

人間五十年、下天の内を
くらぶれば・・・

濃姫

夢幻の
如くなり・・・

織田信長

ひとたび生を
得て・・・

濃姫

滅せぬ者の
あるべきか・・・

このように、信長と濃姫が「一緒に高らかに歌った」のは、なさそうです。

「なさそう」ですが、桶狭間の頃は、お互い若かった信長と濃姫。

後年から見れば「戦国の覇王」である信長は、この頃は「若き大名の一人」に過ぎない存在でした。

東の今川、北の斎藤に挟まれた織田家の未来を、どう二人で語り合ったか。

この銅像を見て、このように二人が一緒に過ごしたことを思い浮かべるのもまた、歴史の楽しみです。

清洲城を訪問の際には、ぜひ織田信長+濃姫像も訪問してください。

New Historical Voyage

この記事が気に入ったら
フォローしてね!

目次