前回は「天守閣から尾張と岐阜が一望できる犬山城〜周囲を睥睨する天守閣・織田信長の叔父信康が築城・尾張統一線の拠点〜」の話でした。
越前・尾張・遠江・信濃・加賀の五ヶ国の守護斯波義重

今回は、清洲城を訪問した話です。
現在、愛知県の中心都市であり、全国有数の大都市である名古屋市に名古屋城があります。
かつては、「那古野城」と呼ばれていた名古屋城が中心となったのは江戸時代以降のことでした。
織田信長の時代は、尾張(愛知県)では清洲城が中心であったのが事実です。
そして、長らく尾張の中心都市として栄えた清洲は、室町時代から尾張・東海地方の一大都市でした。

室町期、越前・尾張・遠江・信濃・加賀の五ヶ国の守護を兼ね、盛況を誇っていた斯波氏。

尾張の中心都市・清洲に
我ら守護の城を築く!
1405年に、斯波義重が清洲城を築いたのが、清洲城の始まりとされます。
室町期の守護では、山名家・大内家・細川家・畠山家などと同等の大勢力だった斯波家。
いわば、超名門だった斯波家は、広大な大領土を有していました。
この中で、尾張・遠江・信濃は三ヶ国隣国で、越前・加賀は二ヶ国隣り合っています。
この「地続きではない国家運営」には諸説ありますが、大事なポイントがあると考えます。


それは、「尾張・遠江・信濃」は太平洋に、「越前・加賀」は日本海に面していることです。
そして、いずれの国々も、当時の「京・山城中心の国家像」では、「中心圏」に含まれています。
現代でも物流は、飛行機があるものの、圧倒的な量が船によって運ばれています。
当時は、現代よりもさらに水運や物流、あるいは「大陸との行き来」として海の重要性が高い時代でした。
この点で、京・山城に近く、商業が繁栄していて、さらに海に面したエリアを有した斯波氏。
尾張中心の清洲城を押さえて飛躍した織田信秀:守護代重臣の織田家





我が斯波家は、
超名門なのだ!
五ヶ国もの領土を有した斯波氏の本拠地に関しては、諸説あります。
「武衛家」と呼ばれることが多かった斯波家の本拠地は、尾張か越前と言われています。
越前は、三国湊など大陸や他国からの水運の一大拠点があり、京・山城へ続く道が整備されていました。
「京・山城中心の国家像」を考えると、おそらく「越前の方が終わりより格上」だったと考えます。
そして、後世、「同じ斯波氏に仕えていた」織田家と朝倉家の間で合戦が勃発しました。
織田信長と朝倉義景の死闘です。
朝倉義景に関する話を、上記リンクでご紹介しています。
そして、尾張斯波氏の守護代だった織田家は、1470年代内紛を起こし、二つに分派しました。
分派した織田家は、尾張北部を納める岩倉織田家と尾張南部を納める清洲織田家に別れました。
・尾張北四郡:岩倉織田家(伊勢守)
・尾張南四郡:清洲織田家(大和守)





我こそは、
清洲三奉行の一人、織田信秀である!
織田信長の織田家は、「清洲織田家の三家老の一人」の家柄でした。
つまり、「守護代の重臣」であり、「守護代の下」だった信長の織田家。
その織田家は、信長の父・信秀の時代に一気に興隆しました。
そして、時代は戦国時代を迎え、守護・斯波氏の影響力は急速に衰えました。
衰えたものの、「守護の権威」はまだ残存しており、



我が尾張の国主は
武衛様!
実権は失ったものの、「武衛様」と民衆から呼ばれていた斯波氏の「潜在的影響力」は巨大でした。
この「潜在的影響力」は、かつては斯波氏が「五ヶ国もの守護を兼ねた」事実も大きかったでしょう。
尾張の北を支配下に置いた岩倉織田家と、尾張の南を支配下に置いた清洲織田家は内紛を続けました。
この「同じ一族で内紛を続けた」のは、当時日本国中で見受けられたことでした。





我が甲斐では、
武田一族が揉めに揉めて・・・



内乱状態にあったが、
ワシが鎮圧して統一したのだ!
守護・守護代・国衆(地侍)出身 | 大名 |
守護 | 武田家・大友家・島津家・今川家 |
守護代 | 長尾家(上杉家)・朝倉家 |
国衆(地侍) | 三好家・織田家・徳川家・毛利家・北条家・(豊臣家) |
守護代だった朝倉家、守護代の家臣だった織田家と比較して、「超正統派」だった武田家。





私は守護大名
から戦国大名になった武田信玄!
後世の織田家、豊臣家、徳川家とは比較にならぬほど、恵まれた身分だった武田家。
織田信秀の頃に、内乱を鎮圧した武田信虎によって、ようやく「正式な甲斐守護」になりました。
守護大名:元々守護であった家・組織が軍事力を強化して大名化
戦国大名:元々は国衆や地侍等の「軽い身分」だった家・組織が軍事力を強化して大名化



津島湊を押さえて、
海運を掌握した!



そして、湊からの
運上金は莫大だ!
経済的センスに優れていた織田信秀は、尾張の海運・物流を支配して、急速に力をつけました。
この頃に、清洲城には「武衛様」が「鎮座」する形で尾張を納め、そのもとで、



武衛様の権威を活かしながら、
我が織田家の勢力を伸ばす!
抜群の軍事的才能と経済センスを持っていた、織田信秀は、第一級の人物でした。


信秀から信長の時代の清洲城は、川を中心とした都市でした。
清洲城にある「当時の清洲城の模型」からは、当時の清洲城が偲ばれます。
「河川に分断」されたかのような都市ですが、「河川が中心」ででした。
そして、本丸のすぐ脇を河川が流れ、「水の都」だった清洲。
河川の周辺に清洲城を築いたのは、おそらく斯波氏でしたが、水運重視が良く分かります。
次回は、織田信長の飛躍のきっかけとなった清洲城内部に入ってゆきます。