「尾張の都」だった清洲〜一気に隣国美濃に侵攻した織田信秀の着眼点・強運に恵まれた「戦国の覇王」織田信長〜|尾張・清洲城2

前回は「尾張中心の清洲城を押さえて飛躍した織田信秀〜守護代重臣の織田家・越前と尾張と遠江と信濃と加賀の五ヶ国の守護斯波義重〜」

目次

強運に恵まれた「戦国の覇王」織田信長

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清洲城(新歴史紀行)

現代では「愛知県と言えば、名古屋」であり、名古屋は、世界的にも有名な大都市です。

愛知県は昔は「尾張」と呼ばれており、戦国時代までは「尾張(愛知県)と言えば、清洲」でした。

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戦国大名 織田信長(歴史群像シリーズ 図説・戦国武将118 学研)

そして、「尾張と言えば、織田信長」です。

織田信長

この織田信長は、
清洲の力、天下に覇を唱え始めたのだ!

織田信長の最初の本拠地は、清洲城であり、ここから織田信長の飛躍が始まりました。

名前生年
毛利元就1497年
北条氏康1515年
今川義元1519年
武田信玄1521年
長尾景虎(上杉謙信)1530年
織田信長1534年
島津義弘1535年
羽柴(豊臣)秀吉1537年
徳川家康1542年
戦国大名の生年

1934年生まれの織田信長は、ちょうど戦国時代の英雄たちの中央付近の年代となります。

この「年代が中央付近」は「たまたま」ではなく、「信長中心の戦国時代」だったためです。

織田信長

この信長が、
日本の戦国時代の覇王なのだ!

織田信長が「戦国時代の覇王」となったのは、信長自身の能力が圧倒的に抜群だったのが理由です。

自ら「戦国最強の家臣団」を作り上げた織田信長の話を、上記リンクでご紹介しています。

そして、織田信長自身は極めて運が良かったのも事実です。

その一つは、信長自身が19歳(数え年、以下同)にして、莫大な財産と領土を相続したことでした。

「尾張の都」だった清洲:一気に隣国美濃に侵攻した織田信秀の着眼点

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戦国大名 織田信秀(Wikipedia)

優れた闘将であり、政治力に長けた父・織田信秀によって、信長の織田家は一気に勢力を広げました。

織田信秀

この信秀が、この尾張を
治めてくれる!

織田信秀

さらに美濃にまで、
侵攻してくれる!

勢い余った信秀は、隣国であった美濃に侵攻しました。

尾張守護代・織田家の分派

・尾張北四郡:岩倉織田家(伊勢守)

・尾張南四郡:清洲織田家(大和守)

もともと尾張四郡の清洲織田家の三奉行の一人だった信秀が、尾張のの美濃に攻め込みました。

おそらく、信秀の美濃侵攻の頃、信秀は主筋の清洲織田家を上回る存在だったと思われます。

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1552-55年頃の勢力図(歴史人 2020年11月号 学研)

それにしても、まだ「尾張北方に蟠踞していた岩倉織田家」が健在なのに、

織田信秀

岩倉織田家との
決闘も大事だが・・・

織田信秀

一気に美濃を
切り取って見せる!

「さらにその北の美濃」を攻めた織田信秀。

それには、大きな理由がありました。

織田信秀

我が尾張では、
守護の武衛様(斯波家)がいる・・・

織田信秀

そして、その武衛様を
形式的とはいえ、「お飾り」にしている・・・

時は下剋上の戦国時代とはいえ、「守護の権威」は、ある程度健在でした。

織田信秀

美濃では、斎藤道三とか
いう奴が、・・・

織田信秀

守護・土岐家を
追い出したらしい・・・

その「守護を追い出した=守護不在」であった美濃は、信秀から見たら、

織田信秀

守護不在の
美濃は切り取りやすいのでは・・・

織田信秀

さらに地元の尾張で勢力を
伸ばしたいが・・・

織田信秀

武衛様の手前、
あまり派手には出来ん・・・

織田信秀

よしっ!
一気に美濃へ攻め込んでやる!

足元の尾張よりも隣国・美濃の方が「切り取りやすい」と考えたのでしょう。

守護・守護代・国衆(地侍)出身大名
守護武田家・大友家・島津家・今川家
守護代長尾家(上杉家)・朝倉家
国衆(地侍)三好家・織田家・徳川家・毛利家・北条家
武士階級外豊臣家・斎藤家(諸説あり)
戦国期の大名の家柄:守護・守護代・国衆(地侍)

まだまだ、信秀の頃の戦国時代は「守護の権威」が盛んであり、当時の大名は守護の系列が多数でした。

さらに、信秀が「美濃の斎藤家打倒」を考えたのには、大きな理由がありました。

織田信秀

そもそも、斎藤道三とか
いう奴は、油屋だったらしい・・・

織田信秀

才覚に長け、
美濃を奪い取ったらしいが・・・

織田信秀

商人如きに
何が出来る・・・

斎藤道三が油屋出身の商人(諸説あり)であることもまた、信秀に自信を持たせました。

現代では、斎藤道三は「二代目」であり、「道三の父が美濃で成り上がった」のが通説となっています。

いずれにしても、道三、または道三の父は、信秀のように「守護代に仕えた身分」ではなかったのでした。

織田信秀

美濃の領土を思い切り
奪ってくれるわ!

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戦国大名 斎藤道三(Wikipedia)

馬鹿め・・・
この道三を舐めるな!

織田信秀

くくっ!
美濃衆は強い・・・

織田信秀

そして、あの道三の
魔術的な采配は、なんだ・・・

勢い込んで、最大動員の数千の手勢で美濃に一気に侵攻した信秀でしたが、道三に完敗しました。

織田信秀

この俺が
完敗するとは・・・

織田信秀

あの今川家にも
痛撃を喰らわせた、この俺が・・・

信秀は茫然自失となったでしょう。

この道三は、
戦国切っての軍事能力を持つ!

そして、泉の如く
湧き出る智謀もある!

極めて優れた武将であった信秀でしたが、道三では「相手が悪すぎた」のが現実でした。

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清洲城(新歴史紀行)

足元・尾張が固まっていないにも関わらず、信秀が隣国まで遠征できたの理由は「清洲の富」でした。

織田信秀

清洲を押さえたから、
尾張の富は、ほぼ全て織田家へ!

織田信秀

この富で、軍事力を
増強したのだ!

そして、清洲が「尾張の都」であった点も重要でした。

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清洲城(新歴史紀行)

清洲城内には、信長の頃の清洲城及び周辺の街並の復元模型が展示されています。

川に囲まれた「優雅な大都市」だった尾張。

信秀・信長の飛躍の根源こそ、ここ清洲城でした。

次回は上記リンクです。

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