前回は「自ら「独創的戦法を研究し続けた」戦術の大家・小沢治三郎〜「良識派」の同期トップの井上成美・陸軍将校より「穏健派」が多かった帝国海軍将校〜」の話でした。

海兵の卒業成績が一生左右した「軍令承行令」:柔軟な米海軍

大日本帝国では、海軍エリートコースである海軍兵学校(海兵)の卒業成績が一生影響しました。
海軍兵学校は「16歳〜19歳」が入学することが出来ました。
つまり、現在の「高校から大学」にあたる期間に、海軍士官候補生たちが切磋琢磨しました。
海兵の卒業成績は、厳密に管理され、海軍士官となった後も海兵卒業成績で人事が判断されました。
帝国海軍には「軍令承行令」という規定があり、「先任」と「後任」が明確に定められていました。
基本的に、「海兵卒業期が上」であれば、「先任」となり「後任」を指揮する権限があります。
つまり、完全な「年功序列」であり、いかにも日本的な制度でした。
この軍令承行令によれば、「無能は年長者」が「優秀な年少者」を指揮することが可能です。
この制度は、戦争がない「平時」なら良いですが、戦争が起きている「戦時」では大問題でした。
そして、帝国海軍将校の人事を扱っていた海軍省人事局は、
帝国海軍省大丈夫、
軍令承行令で問題ない・・・



そもそも、無能な人物は
上の方に行かせない・・・



艦長ならば、
海兵卒業生は全員なれるが・・・



司令官や司令長官は
選りすぐりの人物だ!
確かに、司令官や司令長官は「選り抜きの人物」が任命された帝国海軍。
それでも、「高校〜大学の成績」が「一生響く」のは異常でした。


この軍令承行令は、米海軍の人事運用とは対極的でした。
米海軍でも、ある程度はアナポリス海軍士官学校の成績が考慮されたかもしれませんが、



学校の成績は
大して重要ではない・・・



なんといっても
実務での能力だ!
米海軍では、無用な「人事の順序」を付けず、戦争に応じて、「少将から大将・中将へ昇格」させました。
一般的な提督は「少将止まり」であり、指揮官になるのは「大将または中将」でした。
「己の道」を切り拓いた小沢治三郎:「艦長止まり」の海兵席次


この「歪すぎる」帝国海軍の人事において、小沢治三郎は「中位の成績で卒業」でした。
| 海軍兵学校卒業期 | 名前 | 役職 | 海兵卒業成績 |
| 28 | 永野 修身 | 軍令部総長 | 2 |
| 32 | 山本 五十六 | 連合艦隊司令長官 | 11 |
| 32 | 嶋田 繁太郎 | 海軍大臣 | 27 |
| 35 | 近藤信竹 | 第二艦隊司令長官 | 1 |
| 36 | 南雲 忠一 | 第一航空艦隊司令長官 | 8 |
| 37 | 井上 成美 | 第四艦隊司令長官 | 2 |
| 37 | 小沢 治三郎 | 南遣艦隊司令長官 | 45 |
| 39 | 伊藤整一 | 軍令部次長 | 15 |
| 40 | 宇垣 纏 | 連合艦隊参謀長 | 9 |
| 40 | 大西 瀧治郎 | 第十一航空艦隊参謀長 | 20 |
| 40 | 福留 繁 | 軍令部第一部長 | 8 |
| 40 | 山口 多聞 | 第二航空戦隊司令官 | 2 |
| 41 | 草鹿 龍之介 | 第一航空艦隊参謀長 | 14 |
第二次世界大戦時の主な提督たちの卒業成績が、上の表です。
一目で、「卒業成績20位くらいまで」が司令長官や参謀長になる「最低ライン」であることが分かります。
この中で、明らかに「圧倒的に成績が下位」であった小沢治三郎。



確かに、私は
優等生肌ではない・・・
小沢は、若い頃から自分が「優等生肌ではない」ことを明確に自覚していたでしょう。
そもそも中学生の頃に、不良中学生と喧嘩沙汰を起こし、退学処分になった小沢治三郎。



流石に私は
暴力沙汰は起こさなかった・・・



私も勉学に励んでいたから、
暴力沙汰とは無縁だった・・・



尤も、開成中学の
棒倒しでは暴れたがな!



私も喧嘩沙汰は
考えられないな・・・
典型的優等生であった山本五十六、山口多聞、伊藤整一らでは「喧嘩沙汰で退学」はあり得ませんでした。
喧嘩沙汰で中学退学となった小沢治三郎に関する話を、上記リンクでご紹介しています。
上の第二次世界大戦時に軍令部・海軍省・連合艦隊で大幹部だった中で、圧倒的に低い成績だった小沢。
近藤信竹の首席を筆頭に、永野修身・山口多聞・井上成美の2位が光っています。



軍令承行令として、
海兵の卒業成績はトップクラスが望ましい・・・



だが、勉強しすぎで
固定観念になりすぎるのもマイナスだ・・・



身体も頑健で、
文武両道が望ましい・・・



すると、海兵卒業成績は
10位〜20位くらいが望ましいか・・・
当時、海軍省では、「海兵卒業席次10位〜20位くらいが望ましい」としていた説もあります。
この「海兵卒業席次10位〜20位」にドンピシャだったのが、山本五十六と伊藤整一でした。
この中、海兵卒業席次45位という、艦長にはなれるが、司令官や司令長官は難しい席次だった小沢。



海兵卒業席次では、
せいぜい艦長止まり、か・・・
ここで、薩摩男児であった小沢は、奮起して「独自の戦法」を編み出しました。


1922年に、世界に先駆けて完成した、世界初の空母鳳翔。
1886年生まれの小沢が、36歳となる頃で、ちょうど脂が乗ってきた頃でした。



これからの海戦は
戦艦ではなく、空母主体ではないか・・・
当時、帝大より難関と言われることもあった海兵や陸士。
およそ140名程度の卒業生を出していましたが、当時の日本の優等生が集まったのが海兵でした。
その中で「45位の席次」は、日本全国で考えたら「優等生」でした。
むしろ「海兵で席次が低かった」ことが、小沢治三郎に「己の道」を切り開く契機となりました。


