前回は「空母機動部隊の生みの親・小沢治三郎の実像〜独創的斬新な戦法への異常な執着・古い「海戦要務令」を公然と批判・大艦巨砲主義に対抗する「航空艦隊編成」〜」の話でした。

不良少年との喧嘩沙汰で中学退校処分:日露戦争下の張り詰めた雰囲気

1886年に宮崎県で生まれた小沢治三郎。
父は元高鍋藩士であったため、武士の家系に生まれた小沢少年は、

僕は、将来
武士のような軍人になりたい!
きっと、小さな頃から「武士のような軍人」を目指していたと思われます。
そして、地元の宮崎中学に進んで勉強に励んだ小沢少年でしたが、



おいっ!
お前、生意気だな!



な、なんだと、
貴様、俺を馬鹿にするのか!
ふとしたことから、不良少年に絡まれてしまい、喧嘩になりました。



俺の柔道を
受けてみろ!



く、くそっ!
覚えていろよ!
「武士の家系」を大事にしていたため、小さな頃から武芸に励んでいたため柔道が得意だった小沢少年。
そして、不良少年を容易に撃退しましたが、



おい、小沢・・・
いくら何でもやり過ぎだ・・・



学校としては、
こんな喧嘩沙汰を見逃すわけにはいかん!



お前を退校処分と
する!
そして、宮崎中学をあっさり対抗処分となってしまいました。



くそっ、
悪いのは不良の連中なのに・・・
現代では、義務教育の中学を簡単には退学にはできないはずですが、当時は倫理観が強かったのでしょう。
時は日露戦争中で、日本国民が一丸となって「ロシアとの死闘」を推進していた時代でした。
学校側の論理としては、



大陸でロシア軍と
我が帝国陸軍が戦っているというのに・・・



こんな喧嘩沙汰で、
同志討ちのようなことをして、どうする!
逼迫した「恐露意識」が強い中、学生同士の「行きすぎた喧嘩」に激怒したのでしょう。
日露戦争下の張り詰めた雰囲気に、大日本帝国中が「極めて強い緊張」の中にありました。



学校を退学に
なって、どうしようか・・・
不良少年を撃退したはずの治三郎でしたが、自分が不良への道を歩みそうになっていました。



治三郎が、喧嘩で
中学退学か・・・
当時、満州でロシアと激闘を繰り広げていた兄・宇一郎はガッカリしました。
薩摩武士目指した小沢治三郎の実像:兄の上官からの手紙に奮起


ここで、戦場の地・満州で、兄・宇一郎は上官に相談しました。



牛島中隊長殿、
我が弟が喧嘩で中学退学となりまして・・・



なにっ!
喧嘩で中学中退だと!



・・・・・



まあ驚きだが、
そこまでやるのは見込みがあるな!



将来は軍人になって、
帝国のために役立つと良い!



よしっ!
俺が君の弟に手紙を書いてやろう!



あ、有難う
御座います!
そして、宇一郎の上司であった牛島貞雄は、小沢治三郎少年に手紙を書きました。



過ちを改むるに
憚ること勿れ・・・
論語からの言葉で、「過ちを犯したら、即座に改めて生き直せ」くらいの意味でした。



よしっ!
喧嘩は確かに良くなかった!



こうなったら、
上京して、やり直しだ!
牛島からの手紙で奮起した小沢は、この手紙を生涯大事にしたそうです。



この手紙が、
私の人生を変えてくれた!
そして、宮崎から上京して、出直すことにした治三郎少年は、成城中学校に入学しました。
武士の家系だけあって成城付近に親戚がいて、宮崎から一転して都会ライフを楽しんだ小沢。



よしっ!
一生懸命勉強してやる!
東京でも喧嘩沙汰を多少起こしながらも、概ね勉強に勤しんだ小沢少年。
いよいよ、大学に入学する年頃になり、



よしっ!
海軍軍人目指して海兵受験だ!
「武士の家系から軍人へ」を目指した小沢青年は、海軍のエリート目指して海兵を受験しました。
ただ、この頃の小沢は、



造船の専門家も
良いかもな・・・
「技術者も面白い」と思っていて、通常の大学を受験することにしました。
当時、東京にいたので、東京付近の大学を受験するのが普通でしたが、



やはり、武士といったら
薩摩!



薩摩の造士館が
源流の第七高等学校へ!
旧薩摩藩の造士館が転じて大学となった、第七高等学校を受験しました。
現在の鹿児島大学であり、偏差値が主流の現代の視点では、「海兵や帝大の下」となります。
設置年 | 大学名 |
1868年 | 陸軍士官学校(前身の兵学校) |
1869年 | 海軍兵学校(前身の海軍操練所) |
1877年 | 東京帝国大学(帝国大学) |
1897年 | 京都帝国大学 |
1907年 | 東北帝国大学 |
1911年 | 九州帝国大学 |
1918年 | 北海道帝国大学 |
1924年 | 京城帝国大学(韓国、のちに廃止) |
1928年 | 台北帝国大学(台湾、のちに廃止) |
1931年 | 大阪帝国大学 |
1939年 | 名古屋帝国大学 |
一方で、当時は1906年であり、明治維新の雰囲気が色濃く残っていました。


偏差値主義ではなかった当時の考えから、旧造士館の第七高等学校は「男子の誉れ」だったでしょう。



薩摩武士の
ように生きるのだ!
そして、見事、難関だった第七高等学校に合格した小沢でしたが、



カイヘイゴウカク、
イインチョウ・・・
「海兵合格」の電報を受け取り、



やはり、海軍軍人を
目指そう!
海軍兵学校入学を決断した小沢青年。
「技術者も又良し」と考えていた小沢は、この頃から「理系的発想の戦略・戦術」を好んでいたでしょう。
未来の「空母機動部隊の海の親」の萌芽が、既に芽生えていた小沢青年でした。