前回は「薩摩武士目指した小沢治三郎の実像〜兄の上官からの手紙に奮起・不良少年との喧嘩沙汰で中学退校処分・日露戦争下の張り詰めた雰囲気〜」の話でした。

陸軍将校より「穏健派」が多かった帝国海軍将校

陸軍将校と比較して、穏健な印象が強い海軍将校。
陸軍将校は、一般的な視点から見ると「異質な雰囲気」の人が多いです。
この理由は、陸軍と海軍の組織的雰囲気の違いが反映されていたと思われます。
そして、陸軍の方が軍も将校の数も海軍より遥かに多かったため、「異質な雰囲気」も多かったのでした。
陸軍将校と比較すると、良識的な表情・顔つきをしている人物が多い海軍将校。
その中でも、見るからに個性的な顔つきの人物の一人が小沢です。
若い頃から喧嘩沙汰が絶えなかった小沢少年は、

勉強して、
海軍士官を目指す!
奮起して猛勉強の結果、海軍兵学校(海兵)に合格しました。



海軍兵学校に
合格したぞ!
当時は、「国家を護る軍人のエリートコース」であった海兵・陸士は、極めて難関コースでした。
現代の感覚で考えれば、「東大合格」相当、またはそれ以上であった海兵合格。
小沢少年の気持ちは、大いに燃えました。
「良識派」の同期トップの井上成美


そして、海兵に37期生として入学した小沢。


同期には、後に第四艦隊司令長官、海軍次官などに就任する井上成美がいました。



僕は、
数学や英語が得意です!
若い頃から、超優等生だった井上成美は、数学と英語が抜群に出来ました。
後世、海軍将校になった後も、数学の本を大事にして、「数学的論理性」を重視した井上。
井上は海兵37期に入学してから、ずっとトップ層を走り続けました。



勉強も好きだが、
「ただ学ぶ」のではなく・・・



学びながら、独自の
道を切り開きたい・・・
対して、若い頃から「独自路線」を追求する性格だった小沢は、それほど優等生ではありませんでした。


戦艦、空母、巡洋艦、駆逐艦、潜水艦、など艦種が何であっても、機械を動かす操艦が重要な海軍。
各国の海軍将兵は、「機械の仕組」を理解する必要がありました。
そして、「機械の仕組」は、物理や数学の世界であり、海兵の教育は理系に偏っていました。
179名いた海兵37期の中で、井上青年はトップ層から突き抜けて、次席となりました。



海兵を
次席卒業したぞ!
後に首席の人物が早くに病没してしまったので、クラスヘッドになったのが井上でした。



私も猛勉強して
45位卒業だ!
そして、小沢青年もまた、猛勉強して45位で卒業しました。
海軍兵学校卒業期 | 名前 | 役職 | 海兵卒業成績 |
28 | 永野 修身 | 軍令部総長 | 2 |
32 | 山本 五十六 | 連合艦隊司令長官 | 11 |
32 | 嶋田 繁太郎 | 海軍大臣 | 27 |
36 | 南雲 忠一 | 第一航空艦隊司令長官 | 8 |
37 | 小沢 治三郎 | 南遣艦隊司令長官 | 45 |
40 | 宇垣 纏 | 連合艦隊参謀長 | 9 |
40 | 大西 瀧治郎 | 第十一航空艦隊参謀長 | 20 |
40 | 福留 繁 | 軍令部第一部長 | 8 |
40 | 山口 多聞 | 第二航空戦隊司令官 | 2 |
41 | 草鹿 龍之介 | 第一航空艦隊参謀長 | 14 |
「45位/179名」は、それほど優秀層ではありません。
それでも、そもそも「全員が優等生」の中では、小沢青年は大いに健闘しました。
その一方で、後に超有名になる帝国海軍将校は、概ね「卒業成績20位以内」です。
この点においても、「際立った優等生ではなかった」小沢青年は、すでに異質な存在でした。
自ら「独創的戦法を研究し続けた」戦術の大家・小沢治三郎


海兵卒業後の小沢青年は、砲術学校と水雷学校に入学して、砲撃と雷撃の腕を磨きました。
ここまでは、「一般的な優等生コース」で、海兵卒業生は「似た道を歩んだ」コースです。



大体の海軍将校に
必要な素養は身につけた・・・
その後、欧米各国を歴訪した小沢青年。


1884年生まれの小沢青年は、永野修身、山本五十六、山口多聞ほど優等生ではありませんでした。
そのため、海外勤務にはならなかった小沢。
その代わり、様々な各国海軍の過去の海戦から、海軍戦略・戦術をじっくり研究しました。



なるほど・・・
この海戦では、ここがポイントだな・・・
エリートコースの海軍大学校を卒業後、駆逐艦の艦長などを経て、



実際に、駆逐艦を動かして、
具体的に戦略・戦術の運用を考えるのだ・・・
「小沢独自の戦略・戦術」を磨き上げてゆきました。



JapanのOzawaは、
類稀なる戦略家だ!
国内よりも、米国など海外の戦史研究家から「異様に高い評価」を受けている小沢。
その小沢の独自路線は、若い頃に確立されていました。