前回は「明治維新の超正統派・江藤新平の実像〜少し地味ながら「最も勉学奨励」の肥前佐賀藩・常軌逸した葉隠精神・長崎から欧州見た佐賀〜」の話でした。

「とにかく勉学重視」の苛烈な佐賀藩:江戸の高い教育の多様性

現在の学校教育制度がなかった江戸時代には、様々な藩がそれぞれの藩校で教育をしていました。
それぞれの藩のカラーに合わせて、百花繚乱のごとく多数の藩校があり、それぞれ校風がありました。
薩摩の造士館、長州の明倫館、会津の日新館などが有名です。
「武士を造る」と言う意味を藩校の名称とした薩摩藩は、その藩風が存分に出ています。

さらに、正規教育の場であった藩校とは別に無数の寺子屋・私塾があったのが江戸時代でした。
「読み・書き・算盤」を中心に、様々な教育がなされたのが寺子屋でした。
対して、私塾は「ある人に師事する」傾向が強く、現代の小学校〜大学とは大きく異なります。
教育においては、江戸時代は、現代よりも多様性が遥かに強かった時代でした。
西洋のような学校制度はなく、体系的な学問とは言い難い江戸時代の藩校・私塾・寺子屋。


とにかく
実行あるのみだ!
多数存在した私塾の中で、圧倒的な存在感があったのが、吉田松陰率いた松下村塾でした。
松下村塾と高杉晋作に関する話を、上記リンクでご紹介しています。
佐賀藩には弘道館という藩校があり、諸藩の中でも佐賀は「勉学を極めて強く奨励」した藩でした。



我が佐賀藩士は、
とにかく勉学に励め!



特に若い頃は、
ひたすら武芸と勉学だ!
「若い頃は、ひたすら武芸と勉学」だった佐賀藩は、他の藩よりも「勉学」が重視されました。



勉学が劣る藩士は
家禄を減らすか、没収だ!
さらに「勉学が劣る」=「成績が悪い」藩士は家禄が減らされ、下手をしたら没収された佐賀藩。
弘道館で猛勉強した江藤新平:義祭同盟主催の枝吉神陽





とにかく、
我が藩校・弘道館で学ぶのだ!
1834年に生まれた江藤新平は、若い頃から勉学に励みました。
現代の視点から見れば、1834年は「幕末に向かって行く時代」です。


当時は第十一代将軍 徳川家斉の治世であり、「当面は徳川幕府の時代が続く」と思われていました。
現代の都道府県とは大きく異なり、「それぞれの藩が国家」であったのが江戸時代でした。
この点で、佐賀藩士にとっては、現代の「佐賀県」という意識とは大きく異なり、



我が佐賀藩の
ために!
「佐賀藩という国家」に帰属している意識を、藩士たちは強く持っていました。
小さな頃から頭脳明晰であった江藤少年は、15歳の頃に弘道館に入りました。
現代では「高校に入学」する年齢ですが、現代では「大学に入学」の感じだったと思われます。



ついに
弘道館に入ったぞ!



ますます勉学に
励み、身を立てるのだ!
少年から青年になる時期に、江藤新平は、大きな出会いを果たしました。



私が
枝吉神陽です・・・
当時、小さな頃から神童と呼ばれるほど高い能力を持っていた枝吉神陽が教授だった弘道館。


枝吉神陽は、副島種臣の実兄です。
後に、極めて高い教養と能力で外務卿などで獅子奮迅の働きをした副島種臣。
その実兄であり、副島種臣よりもさらに教養も能力も高かったのが、枝吉神陽でした。



枝吉先生は
素晴らしい!



枝吉先生の
元で一生懸命学ぶのだ!
1822年生まれで、江藤新平の12歳年上であった枝吉。
「12歳年上」くらいは、傾倒して学ぶには最も良い年齢差と考えます。
年齢が離れすぎていると「遠い存在」ですが、「12歳差」は教える方も若く、とても良いです。
天才肌から教育を受けることが出来た江藤青年は、運が良かったと言って良いでしょう。



我が佐賀藩は
徳川幕府を支える立場だが・・・



そもそも、我が鍋島家は
徳川家に特に目をかけられた家ではない・・・



そもそも、我が日本は天皇が
中心の国家なのだ!



そのため、我ら佐賀藩士は
天皇を敬い、勤王の姿勢で行くべきだ!
徳川将軍家の力がまだまだ強い中、「勤王」を唱えた枝吉神陽。



優れた佐賀藩士で、
義祭同盟を組む!



私も義祭同盟に
加わります!
そして、江藤青年は、若い頃から義祭同盟に加わりました。
・長州・松下村塾:高杉晋作、久坂玄瑞、前原一誠、伊藤博文など
・薩摩・精忠組:西郷隆盛、大久保利通、有馬新七、大山綱良など
・肥前・義祭同盟:江藤新平、大隈重信、副島種臣、大木喬任、島義勇など
幕末には、上の「三大志士グループ」があります。
長州の松下村塾、薩摩の精忠組と共に多くの人物を輩出した義祭同盟。
佐賀出身の名士は、「ほぼ全員が義祭同盟出身」でした。



我ら義祭同盟を中核として、
佐賀藩を動かすのだ!
そのため「佐賀の吉田松陰」と呼ばれるのが、枝吉神陽です。
枝吉は、幕末の風雲の中、1863年にコレラのために41歳で亡くなってしまいます。



猛勉強に次ぐ、猛勉強で
未来を切り開くのだ!
概ね「よく勉強していた」幕末の志士たちの中で、江藤の勉学は飛び抜けていました。
のちに、明治新政府の中核となる江藤新平の素地は、若き頃の猛勉強で確立したのでした。