前回は「「死なんと戦えば生きる!」上杉謙信〜「正義の男」謙信の見つめた未来・関東と北陸で「合戦の人生」〜」の話でした。
「仏の嘘をば方便といい、武門の嘘をば武略という」明智光秀

織田信長に仕えた「戦国指折りの武将」であり、「日本史上最大級の事件」を引き起こした明智光秀。

仏の嘘をば
方便といい・・・



武門の嘘をば
武略という!
謎多き武将・明智光秀は、このような言葉を残しています。
仏の嘘をば方便といい、武門の嘘をば武略という!
生誕年も定かではない明智光秀は、そもそも「前半生」が強烈な謎に包まれています。



私は美濃の土岐家に
連なる名家・明智家の出身・・・





斎藤道三様にも
仕えたことがある・・・
明智城を根拠地とした美濃の名家・明智家の出身だった明智十兵衛光秀。
ただし、この「明智城の明智家」との関係も確たることは分かっていません。





我が父の仇である
斎藤道三を討つのだ!
自らが斎藤道三の「実の子」ではなく、「前国主・土岐頼芸の子種」と信じた斎藤義龍の叛逆によって、



義龍めが・・・
ぐう・・・
権勢を極めていた、有力戦国大名であった斎藤道三は滅亡しました。



道三様が・・・
討死された・・・
この「道三討死」によって「道三側についた」と言われる明智家もまた、滅亡の危機に陥りました。



とりあえず、
隣国の越前か近江へ・・・
「明智城の城主の子」であると言われる明智光秀は、とりあえず隣国へ逃避したことでしょう。





我が妻の父である
義父・道三殿を救うのだ!
まだ、「桶狭間」の前でデビューしたての若き織田信長は、義父・道三の救援に向かいましたが、



美濃勢が
強すぎる・・・
尾張兵よりも遥かに強力であった美濃兵を前に、信長軍は敗退して、尾張に退却しました。
1528年生まれ、あるいは1516年生まれとされる明智光秀。
戦国時代が終わってまもない寛永年間(1624~45年)成立の「当代記」では、「1516年生まれ」です。
明智光秀が生きていた時代とも近く、比較的良質な資料とされる「当代記」は信用性が高いです。
一方で、筆者は明智光秀は「1528年生まれ」説を採用したいと思います。
その最大の理由は、その後の光秀の活躍する年齢から考えた「合理性」からです。
生年も不明な謎の光秀の人生:高齢の「足軽」から大出世


その後、明智光秀は越前王・朝倉義景の元で、鉄砲隊の指揮などをしていた説があります。
朝倉義景の「夢の跡」である、越前一乗谷に関する話を、上記リンクでご紹介しています。
ところが、この「朝倉家にいた」のも確定事実ではなく、どこで何をしていたか不明点が多すぎるのが光秀です。
そして、明智光秀が「ポッと突然登場する」のが、足利義昭が信長のもとに身を寄せた時からでした。





織田信長を
頼って、良いものかのう・・・
この頃は、まだ「将軍になるかもしれない」人に過ぎなかった足利義昭。





信長殿は
若くて、旭日の勢いですな・・・



信長殿の父親の
信秀殿は、朝廷への献金もしておりましたから・・・



将軍家への
尊崇の気持ちもあるのでは・・・
明智光秀とは「比較にならぬほど名家」であった細川藤孝は、すでに足利義昭の重臣でした。



ならば、信長を
頼ろうかのう・・・



それでは、
私が織田殿のところへ使者に参りましょう!
藤孝とは違って、「足軽」と記載された資料が残っている「軽い身分」だった明智光秀。
「足軽」というのは、戦場の「足軽」ではなく、文字通り「軽い身分」という意味です。



私は政治力や
知恵には自信がある・・・
この時は、1868年頃のことでした。
一般に流布している「1828年生まれ」でも40歳、「当代期」の「1616年生まれ」ならば、52歳となります。
流石に、「52歳の身分が軽い武士」を「将軍になろうとしている足利義昭が派遣する」とは考えにくいです。
「重い身分」ならば、年齢が高くても「相応の重み」があって良いですが、



自信はあるのだが、
身分は軽い・・・
流石に「52歳の足軽」では、話にならないでしょう。



足利家の使者、
明智十兵衛光秀でござる・・・



足利将軍家につらなる
義昭様の使者ですな・・・
名前 | 生年(一部諸説あり) |
織田信長 | 1534年 |
柴田勝家 | 1522年 |
滝川一益 | 1525年 |
明智光秀 | 1528年(1516年) |
羽柴秀吉 | 1537年 |
初めて、「新たな主君となる」織田信長と対面した明智光秀。
1528年生まれであっても、当時の観念ではすでに「高齢者」扱いであったはずの光秀。
戦場での働きは、年齢的に難しそうですが、



我が能力の真髄は
軍事能力にある!
軍事能力も際立っており、戦国優秀の戦闘力・采配能力を持った明智光秀。
後に「織田四天王の一人」であり「織田家四軍団長の一人」と猛烈な大出世をしてゆきます。
文武に超優れた明智光秀だからこそ、冒頭の言葉を言えたのでしょう。