足利義昭の偏諱拝領した島津義弘〜将軍家重視の島津の伝統・徳川軽視と敵中突破・鎌倉幕府成立時からの守護島津家〜|島津義弘2・人物像・エピソード

前回は「明治維新の原動力となった島津義弘の「敵中突破」パワー〜名門中の名門の島津家・駆け抜けた「戦国の華の時代」〜」の話でした。

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戦国大名 島津義弘(図説・戦国武将118 学研)
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徳川軽視と敵中突破:鎌倉幕府成立時からの守護・島津家

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左上から時計回りに、徳川家康、石田三成、毛利元就、加藤清正(歴史群像シリーズ55 石田三成 学研、Wikipedia)

戦国期最大の合戦となった関ヶ原の合戦において、前代未聞の「敵中突破」を敢行した島津義弘。

島津義弘

西軍はもう敗北だが、
我が島津は決して負けん!

形式上西軍についた島津軍は、「敗北側」となりました。

ところが、「武の化身」のような存在だった島津義弘は、東軍の中央を突破して退却しました。

島津義弘

敵中突破して、
我が島津へ退却!

言わば「前進して退却」という異常な退却戦を貫いた島津軍は、「異質な存在」でした。

徳川家康

目の前を
通過して退却など、許さん!

徳川家康

島津を討つのだ!
惟新(義弘)を討ち取れ!

島津軍は「島津秘中の秘の極意」である「捨て奸」を発動して、義弘ほか一部が退却に成功しました。

1,500名ほどいた島津軍は、ほとんどが討死し、薩摩に帰りついたのは「わずか80名ほど」と伝わります。

つまり、「1,420名/1,500名=約95%」の死者を出しながらも、異常な戦いを貫いた島津。

島津義弘

我が島津は、徳川ごときに
何か指図される立場ではないわ!

島津義弘からすれば、事実上の天下人となった家康すら「軽い存在」だったでしょう。

名前生年
毛利元就1497年
北条氏康1515年
今川義元1519年
武田信玄1521年
長尾景虎(上杉謙信)1530年
織田信長1534年
島津義弘1535年
羽柴(豊臣)秀吉1537年
徳川家康1543年
戦国大名の生年

そもそも家康の8年年上であり、家柄は「圧倒的に上」だった島津義弘。

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鎌倉幕府初代将軍 源頼朝(Wikipedia)
源頼朝

これからは、我が源氏が
天下を治める!

源頼朝

各地に守護・地頭を設置して、
鎌倉幕府を開設する!

「幕府」という言葉は、江戸時代に生まれた説が強く、当時は「なかった」可能性が高いです。

ここでは、形式的に「幕府」という言葉を頼朝が言ったことにします。

源頼朝

薩摩・大隅は、
従来からの大名の島津を守護に任命する!

かねてから「大名」としての地位を確立していた島津は、薩摩・大隈の守護となりました。

足利義昭の偏諱拝領した島津義弘:将軍家重視の島津の伝統

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鎌倉時代の守護(Wikipedia)

武家政権=武力政権の黎明期から、「守護であり続けた」島津家。

実は、鎌倉時代の一時期に、島津家は鎌倉幕府から「薩摩などの守護を外された」説があります。

このように「一時的に外される」ことは、歴史の流れ上、やむを得ないことであり、

島津義弘

我が島津は、一貫して
薩摩・大隅の守護なのだ!

島津家としては、1185年の守護・地頭設置以来、「ずっと守護」の気持ちだったでしょう。

守護・地頭

守護:各国の軍事指揮官・行政官。地頭などを管轄し、強い軍事力を持つ国を治める役職。

地頭:領土(荘園等)と民衆(百姓等)を管理する地域の行政官。徴税権・警察権を持つ役職。

「守護と地頭」と呼ばれますが、守護の方がはるかに強力な立場でした。

言わば、地頭は「守護の補佐役」であり、各国は「守護を頂点とした統治機構」を持っていました。

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鎌倉幕府初代将軍 足利尊氏(Wikipedia)
足利尊氏

鎌倉幕府を打倒して、
我が足利の室町幕府を開設したが・・・

足利尊氏

各国の「守護トップの統治機構」は
継承しよう・・・

鎌倉幕府の源氏将軍は「たった3代で終了」し、その後は「お飾り将軍」が続きました。

そして、鎌倉幕府の実権を握っていたのは、執権北条家であり、北条家は平氏を名乗っていました。

対して、足利は源氏であり、形式的には「源氏が平氏を倒した」ことになった室町幕府の足利将軍。

その一方で、「同じ源氏」である源頼朝が作り上げた「守護トップの統治機構」は堅持しました。

島津義弘

我が島津は、鎌倉幕府から
室町幕府に続く守護なのだ!

「鎌倉から室町までずっと守護」は、島津以外には、大友・武田など数少ない存在でした。

その「極めて貴重な家柄の一つ」であった島津家が「自尊心が高い」のは当然でした。

そして、1535年に「島津忠平」という名前で生まれた義弘。

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第十五代足利将軍 足利義昭(Wikipedia)
足利義昭

我が義昭の字を
一字「義」を授けよう・・・

島津忠平(義弘)

有り難き幸せ!
今日から、忠平は義珍と名乗ります!

忠平は、将軍・義昭の偏諱を受けて、義珍へと改名し、次いで義弘と名を改めました。

足利家から「一字を受ける=偏諱を拝領する」ことは、当時多かったですが、「義」の字は少数派でした。

二代目義詮以降、足利将軍家に綿々と続いた「義」の一字は、非常に尊い扱いであり、

足利義昭

島津は、名門なので
特別に「義」を授けるのだ!

島津忠平(義弘)

ははっ!
この島津は、将軍家に忠誠誓います!

おそらく、島津家の当主・当主に近い人物たちは、「将軍家を尊崇」する立場だったでしょう。

この「将軍家崇拝」の島津家から見れば、「関ヶ原」時点の徳川家は、

島津義弘

徳川家が、我が島津を越える
大大名であることは認める・・・

島津義弘

家康が長い歴史と
高い軍事力・政治力を持つことも認めよう・・・

島津義弘

家康が内大臣であり、朝廷で
重い立場であることも分かっている・・・

島津義弘

だが、お前(家康)は、将軍家でも
なんでもない存在だろう!

「将軍家でもない」徳川などは、「超名門の守護」島津から見れば「格下だった」のでしょう。

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