前回は「空母航空隊に巨大な未来を見出した山口多聞〜世界初の空母鳳翔・第一次世界大戦と大日本帝国・日英同盟と艦隊地中海派遣〜」の話でした。

米プリンストン大学への留学:大学院を遥かに超えた海大のレベル

「世界初の空母」と言われる空母・鳳翔が完成した1922年の前年、

山口大尉よ!
米国駐在を命ずる!



はっ!
米国で学んできます!
米国駐在を命ぜられた山口青年は、米国のプリンストン大学へ留学しました。



ここが米国か・・・
広いな・・・


海軍エリート育成機関であり、大学に相当する海軍兵学校を卒業した山口。
当時、海軍兵学校は呉にあり、広大な敷地と海がありましたが、



米国の国土は
途方もない広さだな・・・



そして、至る所に
様々な資源があり、原油は世界一か・・・
海兵を次席卒業した山口は、幼い頃から勉強が超得意であり、「勉強することが好き」でした。
プリンストン大学で懸命に学んだ山口は、ある程度英語力も上がる中、米国を肌で感じました。



我が帝国海軍は、
かなり強力だが・・・



米国は、そもそも「戦う相手」では
ないな・・・
当時の大日本帝国と比較して「隔絶した」国力を有していた米国を前に、米国の巨大さを理解した山口。
勉学に励み、米国を頭と身体でしっかりと理解した山口は、着実に成長しました。



山口大尉よ!
少佐へ進級だ!



はっ!
ますます励みます。
そして、エリート階段を爆走し、海軍省の期待もトップクラスで、早々に少佐となった山口。



次は、海軍大学校で
学ぶのだ!
年によりますが、概ね一学年20名ほどの「限られたエリート」のみが進学できた海軍大学校。
学びのレベルとしては、現代の大学院に相当しますが、原則として「実務経験後」でした。
そして、当時の日本の超エリートの中でも「限られた人物のみ」だった海軍大学校。
海軍大学校に入学することは、現代の大学院を遥かに超えていました。
「海大への進学」は「将来が約束された」ことでした。



私も海大で
学んだ!
山本五十六をはじめとして、多数の将官は海大を卒業していました。



しっかり学んで、
海大も次席卒業だ!
海兵に続き、海大も次席卒業した山口への期待は、ますます高まるばかりでした。
山本五十六との邂逅果たした山口多聞:ロンドン軍縮会議と外交の現場


海大を卒業したばかりの山口少佐には、重大な指令が下りました。



山口少佐よ!
ロンドン海軍軍縮会議へ行け!



はっ、
行ってまいります!
当時は、世界中の国々が、第一次世界大戦後の「束の間の平和」を享受していました。
その一方で、各国で主に海軍力増強の嵐が吹き荒れている中、



みなさん!
ここで、お互い歩み寄りませんか!



お互いの建艦に
規制をかけるのは、いかがですか?



具体的な数量で
軍縮して、平和路線はいかが?
「主要国であった日米英仏伊で建艦規制」を掛ける協議が、1930年にロンドンで行われました。
30代後半に大事な軍縮条約の協議に出た山口は、



お互い、ある程度
規制をかけるのは必要だな・・・
このように「規制をかける」ことに対しては、ある程度の理解をしていたでしょう。
その一方で、



Japanは、我が国の
概ね70%でいかが?
戦艦・空母・巡洋艦・駆逐艦など、各艦の用途に応じて、細かく数値が協議されました。
古来から「米国を潜在敵国」としてきた帝国海軍は「対米7割の厳守」を固く守ってきました。
「巡洋艦の対米比率が60%に抑えられる」など思惑通りに進まなかった状況に対して、



軍令部としては、
このような協議を了承できん!
軍令部は真っ向反対を唱えました。
そして、このロンドン海軍軍縮条約には、山本五十六も参加していました。





軍縮によって、各国の
建艦競争を抑制する必要は分かる・・・



だが、我が帝国海軍が
一方的に制限されるのは困るな・・・



山本さん!
私も同感です!
お互い優等生同士であり、根が「バリバリの闘将」であった山本と山口はウマが合いました。



ああ、山口か・・・
お前も同感か・・・
ロンドン軍縮協議が行われた1930年の頃は、すでに山本と山口は「航空派」となっていました。



戦艦や巡洋艦よりも
空母の拡充を急がねばな・・・



私も空母を主軸と
すべきと考えます・・・
海軍兵学校卒業期 | 名前 | 専門 | 役職 |
32 | 山本 五十六 | 航空 | 連合艦隊司令長官 |
36 | 南雲 忠一 | 水雷 | 第一航空艦隊司令長官 |
37 | 小沢 治三郎 | 航空 | 南遣艦隊司令長官 |
40 | 山口 多聞 | 航空 | 第二航空戦隊司令官 |
40 | 宇垣 纏 | 大砲 | 連合艦隊参謀長 |
41 | 草鹿 龍之介 | 航空 | 第一航空艦隊参謀長 |
この会議の11年後の1941年、山本連合艦隊司令長官の元、山口は第二航空戦隊司令官となります。
真珠湾奇襲攻撃の攻撃計画の際の山口と山本の話を、上記リンクでご紹介しています。



戦艦や巡洋艦に
こだわる時代は終わったのだ・・・
ここで、8期上で雷名轟いていた山本が「同意見である」ことに、強い自信を持った山口青年。
軍縮という外交の現場を経験し、



よしっ!
空母航空隊のために益々励もう!
空母航空隊の拡充、戦略研究に没頭することを決めたのでした。