河井継之助を尊敬し続けた山本五十六〜「山本」五十六の誕生・海軍兵学校目指して猛勉強した高野五十六少年・超難関だった海兵〜|山本五十六3・能力・人物像

前回は「小さい頃から優等生だった山本五十六〜「五十六」という不思議な名前の由来・教養人の父貞吉の思い・帝国海軍への道〜」の話でした。

山本五十六 連合艦隊司令長官(連合艦隊司令長官 別冊歴史読本 新人物往来社)
目次

海軍兵学校目指して猛勉強した高野五十六少年:超難関だった海兵

新歴史紀行
海軍兵学校生徒館(現 海上自衛隊幹部候補生学校)(Wikipedia)

多くの日本人が知っている、知名度抜群の山本五十六。

歴史が好きな方はもちろん、歴史にそれほど興味がない方でも、山本五十六の名前は知っています。

おそらく、「歴史上の有名人ランキング」では織田信長や坂本龍馬とともに筆頭に上がる山本。

山本五十六

この山本五十六は、
もともとは高野家出身だ!

山本五十六は、もともとは高野家出身であり、元の名前は「高野五十六」でした。

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高野(山本)五十六少尉(Wikipedia)

越後長岡に生まれた高野五十六は、長岡の地を「こよなく愛した」人物でした。

親戚に海軍軍人がいたこと、そして海に近い越後長岡に生まれ育った高野五十六は、

高野五十六

帝国海軍軍人となり、
海から帝国を守る!

早い時期から海軍軍人となることを目指していました。

高野五十六

とにかく一生懸命
勉強しよう!

幼い頃から優等生で、文武両道だった高野少年は、当時「最難関校」である海軍兵学校を目指しました。

現在は、「軍廃止」に伴い廃校となり、防衛大学として存続しているのが海軍兵学校です。

現在の防衛大学も難関ですが、当時の海軍兵学校は「超難関」でした。

設置年大学名
1868年陸軍士官学校(前身の兵学校)
1869年海軍兵学校(前身の海軍操練所)
1877年東京帝国大学(帝国大学)
1897年京都帝国大学
1907年東北帝国大学
1911年九州帝国大学
1918年北海道帝国大学
1924年京城帝国大学(韓国、のちに廃止)
1928年台北帝国大学(台湾、のちに廃止)
1931年大阪帝国大学
1939年名古屋帝国大学
海軍兵学校・陸軍士官学校・帝国大学設置年(Wikipedia)

諸外国、特に欧米と比較して、「旧帝大・国立大学の影響力が強い」日本。

年齢などから、現代の大学相当である海軍兵学校(海兵)や陸軍士官学校(陸士)。

海兵と陸士の設立は、国家の維持のためには最優先事項であり、帝大よりも早く整備されました。

いわば、「大日本帝国で最も大事な教育機関」だったのが陸士と海兵でした。

河井継之助を尊敬し続けた山本五十六:「山本」五十六の誕生

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長岡藩家老 河井継之助(Wikipedia)
山本五十六

河井先生の
ようになるのだ!

故郷・長岡の大先輩である河井継之助を尊敬し続けた、と言われる山本五十六。

山本が帝国海軍の中で、あるレベル以上のポジションになってからは、盛んに、

山本五十六

私も河井先生のように、
とにかく滅私奉公で国家に尽くす!

盛んに河井継之助の名前を挙げて、「自分の模範」としていたのが山本でした。

山本がいつ頃から、「河井継之助を理想像としていたか」は不明です。

小さな頃から、一生懸命勉強を続けていた高野少年は、おそらく小さな頃から、

高野五十六

僕にとっては、
故郷・長岡は特別な存在だ!

自分が生まれ育った長岡の地を、こよなく愛していたでしょう。

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東條英機 内閣総理大臣兼陸軍大臣(国立国会図書館)
東條英機

この東條英機も、
1884年生まれである!

高野(山本)も東條英機も1884年生まれであり、4月生まれの山本と12月生まれの東條は「同学年」です。

明治時代、そして、ちょうど大日本帝国が世界の列強へ入ってゆく時代でした。

この時代は、「軍人への道」こそが「国家に尽くす最高の道」であり、

高野五十六

僕の模範となる人は、
「模範像」は誰か・・・

「国家に尽くす」軍人を目指す、多くの少年たちにとって「模範像」が求められた時代でした。

「模範像」は、同じ時代を生きている人であったり、自分が私淑した人であっても良いですが、

高野五十六

やはり僕の「模範像」は、
歴史上の人物かな・・・

「模範像」であるからには、「歴史上の巨大な人物」が望ましいです。

そして、「歴史上の巨大な人物」は、動乱の時期に見出しやすいのは、今も当時も同じです。

注目される・ファンが多い日本の歴史の時期

・戦国時代:1550年〜1615年頃(一部、江戸時代)

・幕末維新:1840年〜1870年頃

・第二次世界大戦:1938年〜1945年頃

現代、歴史好き・歴史ファンが多い時代は、上記の三つであす。

そして、多くの人にとって「好きな人物」や「模範像」は、この三つの時代から選ばれます。

高野五十六少年にとっては、三つ目の「第二次世界大戦」は「自分が作る時代」でした。

そのため、当時の高野少年にとっては、「模範像は戦国か幕末維新」でした。

高野五十六

戦国も面白い人物が
多いけど・・・

v
戦国大名 上杉謙信(歴史群像シリーズ 図説・戦国武将118 学研)

故郷の長岡に直接結びつきにくい面がありますが、越後の上杉謙信は「故郷の英雄」でした。

高野五十六

上杉謙信も
かっこいいけど・・・

高野少年が生まれた1884年は、明治維新から「16年しか経過していない」時代でした。

つまり、現代の私たちから「幕末維新を考える」よりも、「遥かに身近」だった幕末維新。

高野五十六

やはり、
幕末維新が良いかも・・・

「幕末維新の長岡」には、高野少年好みのうってつけの人物がいました。

河井継之助

我が長岡藩は
小さな藩かも知れんが・・・

河井継之助

我が藩の未来は、
私が切り開いてみせる!

幕末維新期に、当時最先端の学問を学び、7万石ほどの長岡藩を導いた家老・河井継之助でした。

高野五十六

僕の理想像は、
河井継之助先生だ!

おそらく、旧制中学に通っていた頃には、「河井を尊敬し始めていた」と思われる高野少年。

そして、海兵に進んで、帝国海軍のエリートの道を爆走した高野五十六。

高野五十六は、「故郷長岡の星」へと成長しました。

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旧越後長岡牧野藩 第十五代当主・貴族院議員 牧野忠篤(WIkipedia)

「長岡の星」で、帝国海軍に雷名を轟かせた、高野五十六に対して、目をつけた人物がいました。

牧野忠篤

高野五十六 海軍大佐は
大した人物だ・・・

旧越後長岡牧野藩 第十五代当主・貴族院議員牧野忠篤でした。

牧野忠篤

我が長岡の名家を
ぜひ継いで欲しい・・・

牧野忠篤

家老の山本家が
絶えているから・・・

牧野忠篤

山本家を
ぜひ、継いで頂きたい!

山本五十六

承知しました・・・
山本家の名に恥じぬよう努めます・・・

山本五十六

今日から、高野五十六ではなく、
山本五十六です!

そして、海軍大学校在学中だった頃に、山本五十六となり、1916年には正式に海軍に届出がありました。

山本五十六となった高野五十六は、「同じ家老の家柄」である河井をさらに尊敬したでしょう。

山本五十六

この山本五十六は、
河井先生のように、国のお役に立つ!

そして、大日本帝国海軍の大スター・山本五十六が誕生しました。

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