前回は「河井継之助を尊敬し続けた山本五十六〜「山本」五十六の誕生・海軍兵学校目指して猛勉強した高野五十六少年・超難関だった海兵〜」の話でした。

畏友・堀悌吉に強い憧憬持った山本五十六

若い頃から優等生で、見るからに「将来有望」出会った高野(山本)五十六少年。
山本五十六は、元は高野家出身であり、若い頃は「高野五十六」の名前でした。

帝国海軍軍人となり、
海から帝国を守る!
親戚の影響もあり、早い時期に海軍軍人を目指し、猛勉強を続けて常に成績上位でした。



何としても、
海軍兵学校に入学する!


高野青年は、東大と同程度、見方によっては東大より難関であった海兵に上位で合格を果たしました。



一生懸命
勉強を続けるのだ!
そして、海兵合格後も猛勉強を続けた高野青年は、常に優等生で通し、11位の上位で卒業しました。



一生懸命勉強したけど、
堀には敵わないな・・・
超優等生であった高野青年は、さらに上をゆくウルトラスーパー優等生・堀悌吉を尊敬しました。
高野青年と海兵同期であった堀悌吉は、首席で卒業しました。



堀は、勉強が出来るだけでなく、
人格も立派だ・・・



堀からは、学ぶことが
沢山ある!


そして、後に山本家を継いで山本五十六となる高野青年は、堀悌吉と親交を結びました。
この時代は、多数の写真が残っていますが、上の「山本と堀」の写真のような写真は非常に少ないです。
「特定の二人がバシッと映った」写真は、かなり少なく、しかも二人とも若手であることが良いです。
上の写真が撮影されたのは1910年代とされ、1884年生まれの高野(山本)と堀が30歳前後です。
この写真からは、山本と堀の親しい仲が滲み出ているように感じられます。



これからは高野五十六ではなく、
山本五十六だ!
そして、1916年には、正式に山本家を継承して、山本五十六と改称した高野青年。
この後もずっと、山本と堀は「極めて親しい仲」を続けました。
「学生時代からずっと親しい仲」は、なかなかあるものではありません。
学生時代親くても、途中で疎遠になったり、行き違いで「親しくなくなる」ことも多いのが現実です。
その中、「盟友であり続けた」山本と堀は「極めて例外的な親友同士」でした。
「米国通」から「対米協調」の急先鋒へ:海兵32期の将星たち


山本五十六が卒業した海軍兵学校32期は、多数の人物を輩出しました。
海兵卒業席次 | 氏名 | 主な役職 |
1 | 堀 悌吉 | 海軍軍務局長 |
2 | 塩沢 幸一 | 第五艦隊司令長官 |
11 | 山本 五十六 | 連合艦隊司令長官、海軍次官 |
12 | 吉田 善吾 | 連合艦隊司令長官、海軍大臣 |
27 | 嶋田 繁太郎 | 海軍大臣、軍令部総長 |
帝国海軍では、海兵の卒業成績が先任順序に影響を与える軍令承行令が明文化されていました。
現在の大学に相当する海兵の成績が良いことは、本人のある程度の能力を担保します。
そして、本人がある程度努力することを示しています。
その一方で、「学生時に優秀であること」は「仕事が出来るかどうか」とは別と考えます。
実際に、この帝国海軍の軍令承行令は弊害が極めて重大でしたが、戦争末期まで続きました。
「海兵卒業成績重視」は、行き過ぎると問題となるのが明白でした。
ところが、海兵32期に関しては概ね問題がなく、優等生が実務でも優れていた人物が多数いました。
この点において、海兵32期は特殊な期です。



山本大尉よ、
駐米武官を命ずる!



はっ、
米国に向かいます。
海軍省にいる期間が長く、後に海軍次官を務める山本は、駐在武官を二度経験しています。
最初の駐米は1909年であり、山本五十六が25歳のことでした。
米国に派遣された山本は、



米国の国土の広さは、
とてつもない・・・



米国の底力は
凄まじい・・・
米国という国家の総合力を肌で感じる貴重な経験を得ました。
他の「米国に行ったことがない」人と比較して、山本が「米国通」となったのは駐米経験が重要でした。
海兵32期の卒業生を見ると、不思議と広範囲に人材が広がっているのが分かります。
本来ならば、海軍大臣に就任するべきであり、明晰な頭脳と優れた人格を持っていた堀悌吉。
堀は、後に海軍の内輪揉めで予備役となってしまいました。



・・・・・



堀よ・・・
なぜ、堀が予備役に・・・
山本は大いに落胆し、「絶望的になった」と伝わっています。


そして、海兵席次では、山本の「後任」であるはずの吉田善吾は、山本よりも先に連合艦隊司令長官に就任しました。
軍令部とは大して縁がなかった山本五十六ですが、同期の嶋田繁太郎は軍令部次長になっています。
役職 | 権限 |
海軍大臣 | 軍政(人事・兵站など) |
軍令部総長 | 軍令(作戦指揮) |
連合艦隊司令長官 | 最前線の艦隊指揮 |
帝国海軍では、海軍大臣・軍令部・連合艦隊司令長官の三大顕職があります。





軍令部総長は
ワシに任せておけ!



なんといっても
ワシは天才だからな!
第二次世界大戦・太平洋戦争開始時から、長く軍令部次長を務めた永野修身。





私は海軍大臣
嶋田繁太郎です。
対米戦開戦直前に海軍大臣に就任した嶋田繁太郎。



私が軍令部総長を
兼任します!
後に軍令部総長を兼任しました。
この嶋田の「軍令部総長兼任」は、東條総理に押された形であり、事実上は「永野総長」でした。
対米戦の頃、大幹部の年齢だった山本五十六たち海兵32期の将星たち。
対して、永野は海兵28期卒業であり、「4期も上」でした。
永野が「大先輩格」として軍令部に君臨し続けましたが、弊害の方が大きかったのも事実でした。
その中、軍令部次長を務め、海軍大臣にもなり、軍令部総長にもなった嶋田。
写真の通り、嶋田は温和な雰囲気で、帝国海軍を支配した伏見宮に気に入られました。



私は、それほど
気が強い方ではなくて・・・
山本よりも先に連合艦隊司令長官となった吉田善吾は、優秀ですが「線が細い」人物でした。
後に、海軍大臣の時に心労で倒れてしまう吉田。
これらの同期の将星たちと比較して、山本は若い頃から胆力が圧倒的でした。



とにかく、帝国海軍の
力を増強させつつ・・・



米国とは協調姿勢を
とるのが最善だろう・・・
「米国とは協調姿勢」を貫いていた山本五十六は、帝国海軍省で着実に仕事をこなし、



私が軍縮協議の
代表を務めましょう!
海軍省内の「役職の階段」を着実に上がってゆきました。
「対米協調」の急先鋒だった山本五十六。
この山本が、対米戦の際には連合艦隊司令長官になり「対米戦の最前線指揮官」となりました。