前回は「山本五十六の実像〜抜群の知名度「東條か山本か」・連合艦隊司令長官の「狭く弱い権限」・聖将と智将と凡将と愚将の評価・真珠湾とミッドウェイ〜」の話でした。

「五十六」という不思議な名前の由来:教養人の父貞吉の思い

1884年に、「高野五十六」として生まれた山本五十六。
第二次世界大戦のことを、あまりご存知ない人でも、

私は、戦争は嫌いだし、
第二次世界大戦のことは詳しくないけど・・・



山本五十六なら
知ってるわよ・・・



昔、日本の海軍の
トップだった人だよね!
「山本五十六ならば、知っている」という人も多いです。
ここで、山本五十六の「五十六(いそろく)」という名前は、非常に珍しいです。
東條英機の「英機(ひでき)」は、「機」の字が「日本人の名前」としては珍しいです。
一方で、読み方の「ひでき」という名前の人は多数存在し、秀樹、英樹、秀喜など現代も多数います。
そもそも、「五十六」という「数字ばかり並ぶ」名前自体、日本人では極めて少数派です。



我が家は
子沢山だな・・・
五十六の父・高野貞吉は、大変高い教養の持ち主であり、



そろそろ、
我が家の男子は、これくらいで良いかな・・・
高野家の五男が生まれた際に、



これ以上は生まれないだろうから、
「男子の最後」を意味する「季八」と名付ける!
五男を季八と名付けました。
ところが、



な、なに?!
また、男子が生まれた、だと?!
貞吉の「予想外」に六男が誕生することになり、



ふむぅ〜・・・
なんと名付けようか・・・



・・・・・
「男子の最後=季八」を名付けてしまった以上、教養人・貞吉は悩みました。



よしっ!
ワシが五十六歳だから、「五十六」だ!



名前だから「ごじゅうろく」では仕方ないから、
「いそろく」と読む!
こうして「五十六」という、一見奇妙な名前をつけられた高野五十六。
この時、父貞吉が56歳でありましたが、母も45歳の高齢出産でした。
子どもは自然に生まれるわけではないので、貞吉の意図は不明な点があります。
そして、当時よりもはるかに出産時期が遅くなった現代でも、「56歳と45歳の出産」は珍しいです。
五十六が生まれた時は、既に「兄の長男が生まれていた」少し異例の状況でした。
小さい頃から優等生だった山本五十六:帝国海軍への道


山が多く、冬は寒い越後・長岡の地に生誕した高野五十六少年。



高野五十六です!
一生懸命勉強します!
父・貞吉の予想外であり、当時の日本の家庭状況を考えると、「高野家の予想外」に生まれた五十六。
物心ついた小学生の頃に、おそらく「五十六の由来」を知ったであろう高野五十六少年。



僕の「五十六」って名前は、
父が五十六歳の時に生まれたからか・・・
本人としては、正直なところ「不思議な感覚」であったと思われます。
現代の感覚ならば、「賛否が分かれる」であろう名前のつけ方でした。
五十六少年は、生まれつき優等生の素質があり、小学生から優等生で通しました。



勉強するのは、
大好きだ!



どんどん学んで、
大日本帝国のお役に立つのだ!





この東條英機も、
1884年生まれである!
実は、東條英機も1884年生まれであり、4月生まれの山本と12月生まれの東條は「同学年」です。


現代日本の一般の人にとっては、 第二次世界大戦は「東條英機か山本五十六か」であり、



東條英機と山本五十六以外は、
知らないかな・・・
「それ以外は知らない」人が多い中、彼ら二人は「同学年」でした。
そして、それぞれが陸海軍の中心人物となったのでした。
山本が連合艦隊司令長官の時には、東條は首相兼陸相であり、「大日本帝国の顔」となりました。


搭乗同様に、10歳の頃の1894年に日清戦争があり、



大国である清に
大勝利した!



これからは、我が大日本帝国が
アジアの帝王なのだ!
快勝した大日本帝国は、「アジアの帝王」となりました。
この頃は、「大日本帝国という国家が日々成長する」躍動期だったでしょう。
この頃、少年だった高野(山本)も東條も、



とにかく、
一生懸命学ぼう!



とにかく
もう勉強することが大事!
二人とも「模範的優等生」であり、一生懸命勉強を続けていました。
もう勉強していた高野(山本)少年が中学生の頃、



孫の力(ちから)は、
大変見所がある!



彼は、大きく成長して、
立派になるだろう!
父・貞吉が「大いに将来を嘱望していた」高野(山本)少年の「10歳上の甥」力。
ところが、力は病死してしまいました。



くっ・・・
力が死んでしまうとは・・・
医療レベルなどから、当時は現代と比較して「子どもが小さなうちに亡くなる」ことが多い状況でした。



五十六が、力の代わりに
死ねばよかった・・・



!!!!!
「力を溺愛していた」貞吉は、このような「言ってはならないこと」を言ったという説もあります。



・・・・・
後年、「部下を大変可愛がり、愛した」山本五十六の精神は、このような経験からも育ったのでしょう。



まあ良い・・・お前(五十六)が力の代わりに、
立派な軍人になれ・・・
「軍人として、帝国に尽くす」ことが、最善とされた価値観だった当時。



大日本帝国軍人目指して、
さらに猛勉強だ!
大日本帝国軍人のエリートである、海軍兵学校目指して、高野少年は猛勉強を続けました。



軍人になるからには、
身体と健康も大事!
そして、「力の悲劇」もあり、身体を鍛えることも超重視した高野少年。
文武両道の優等生少年の瞳は、真っ直ぐ未来を見つめていました。