前回は「美しい水都だった清洲城〜「銭を運ぶ」水運を重視した織田信長・「戦国の大梟雄」信秀と道三の打算的同盟〜」の話でした。
「金ピカ」信長像と織田家の圧倒的経済力:残存する信長時代の清洲

清洲城内を登ってゆくと、天守閣の最上層からは、清洲周辺を眺めることが出来ます。
名古屋駅から電車で7分ほどの位置にある清洲は、「名古屋から極めて近い」場所にあります。

もともと大都市であり、近年大規模開発が続く名古屋駅周辺は、大きなビルが立ち並びます。
この状況と比較すると、やや寂しいくらいの街であるのが、「かつての水都・清洲」です。
現在の清洲城のすぐ脇には、今も川が流れています。

この川と繋がっていた、輝かしい水都であった「かつての清洲」を思い起こさせます。
この川を跨ぐように配置された清洲城入り口へ続く、赤い太鼓橋が清洲城のトレードマークです。

天守閣最上階の欄干では、一周することが出来ます。
現在では、大きな街ではなくなった清洲周辺には、高いビルが少ないです。
かつての尾張国の中心が、完全に名古屋に移ってしまった事実は少し寂しいですが、周囲がよく見えます。
江戸時代から現代にかけて、尾張・愛知県の中心が名古屋に移りました。
そのため、清洲周辺は「信長の頃のまま」と考えられます。

この天守閣最上階には、岐阜城駅前同様に金ピカの織田信長像があります。
「金ピカ」は秀吉の趣味であり、信長のイメージとは少し異なると筆者は考えます。
一方で、戦国時代において、「銭の流通」を最もよく理解していた信長。

我が織田家は、他のどの大名よりも
現金をたくさん持っているのだ!
信長はじめとする超強力な家臣団のパワーと圧倒的経済力で、戦国時代を席巻したのが織田家でした。
清洲城の若き信長と濃姫像:「全てが謎」の濃姫のイメージ


清洲城を出ると、「信長公銅像への道」が小さな標識で示されています。


そして、鉄道の鉄橋の下をくぐると公園があり、信長と濃姫の銅像に出会えます。


かなり賑わっている清洲城と違い、この信長+濃姫像周辺は、かなり人が少ないです。
「戦国最大の大スター」信長と正妻・濃姫の銅像にしては、少し寂しい状況ですが、



歴史好きにとっては、
ゆっくり信長+濃姫像を楽しめます。


先ほどの天守閣最上部の「金ピカ」信長は、織田家最盛期から晩年の信長のイメージと思われます。
対して、ここにある織田信長像は、明らかに若い頃の信長のイメージです。





よしっ!
今川義元の本陣を攻撃する!



ま、まさか・・・
この義元が・・・
桶狭間の戦いで、遥か格上であった大大名・今川義元を討ち取った織田信長。
名前 | 生年 |
毛利元就 | 1497年 |
北条氏康 | 1515年 |
今川義元 | 1519年 |
武田信玄 | 1521年 |
長尾景虎(上杉謙信) | 1530年 |
織田信長 | 1534年 |
島津義弘 | 1535年 |
羽柴(豊臣)秀吉 | 1537年 |
徳川家康 | 1542年 |
戦国のニュースターの、華やかすぎるデビュー戦が桶狭間の戦いでした。
今川義元に関する話を、上記リンクでご紹介しています。


信長のすぐ脇で、寄り添って立っているのが濃姫の銅像です。
戦国の最大のスター・織田信長の正妻であり、戦国最大の梟雄・斎藤道三の娘である濃姫。
それにも関わらず、濃姫に関しては資料が極めて少なく、ほとんどが謎に包まれた存在となっています。
「帰蝶」とも称される濃姫ですが、この時代の女性の名前は「平仮名の名前」が多く、やや不自然です。
そのため、「帰蝶」という名は、後世の創作である可能性が高いと考えます。
信長との子どもがいなかった説が有力であり、早期に亡くなってしまった説もある濃姫。
「美濃から来た姫」の意味で濃姫と呼ばれており、この名称自体は高貴さと可愛らしさが出ています。
そのため、筆者は「濃姫」の名称で良いと考えています。


いずれにしても、信長との結婚後の様子が全く不明瞭である濃姫。



私は斎藤道三の娘で、
信長殿と結婚した濃姫です。
本能寺の変で信長横死後に、急速に台頭した羽柴(豊臣)秀吉の奥方である高台院・寧々とは大違いです。


豊臣政権樹立のプロセスから、関ヶ原の合戦の頃まで強力な政治力を有した高台院。
それに対して、天下人・織田信長の正妻ながら、ほとんどが謎である濃姫。
早期死亡説、本能寺の変で信長に殉じた説、など多数の説があります。
歴史好き、戦国ファンの視点から見れば、「本能寺の変で信長と共に戦死」説を採りたいです。
一方で、この説は一次資料等には全く見られない説であり、「小説向けの話」です。
いずれにしても、もう少し信長公記などに登場しても良いはず、登場するべき存在の濃姫。
一方で、この時代は女性の公的立場は非常に限られていたので、やむを得ないかもしれません。
むしろ、「正妻が登場しすぎる」のが、羽柴(豊臣)秀吉であるとも言えます。


信長と濃姫の銅像の近くには、敦盛を祀った記念碑があります。



人間五十年、下天の内を
くらぶれば・・・



夢幻の
如くなり・・・



ひとたび生を
得て・・・



滅せぬ者の
あるべきか・・・
このように、信長と濃姫が「一緒に高らかに歌った」のは、なさそうです。
「なさそう」ですが、桶狭間の頃は、お互い若かった信長と濃姫。
後年から見れば「戦国の覇王」である信長は、この頃は「若き大名の一人」に過ぎない存在でした。
東の今川、北の斎藤に挟まれた織田家の未来を、どう二人で語り合ったか。
この銅像を見て、このように二人が一緒に過ごしたことを思い浮かべるのもまた、歴史の楽しみです。
清洲城を訪問の際には、ぜひ織田信長+濃姫像も訪問してください。