早々に大久保内務卿に曖昧通報した大山県令〜「私学校」の名称の意味・幕末維新の裏側を生み出した岩倉・薩摩でも長州でもない公家の視点〜|岩倉公実記4・西南戦争・エピソード

前回は「私学校生徒に「迫られていた」西郷隆盛〜剣の達人大山綱良県令・「唯一人の陸軍大将」であり続けた西郷・篠原+桐野と私学校〜」の話でした。

目次

幕末維新の裏側を生み出した岩倉:薩摩でも長州でもない公家の視点

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岩倉公実記:皇后宮色御蔵版:下巻(新歴史紀行)

幕末維新の時期の真相を知るためには、多数の貴重な資料があります。

それらの資料の中でも、「幕末維新の大妖怪」岩倉具視による岩倉公実記は、極めて重要と考えます。

大久保利通日記や木戸孝允日記のように、岩倉自身の日記ではありませんが、

岩倉具視

幕末維新の表も裏も
全て知っている麿が・・・

岩倉具視

未来のために
記録を残しておこうぞ・・・

岩倉公実記の作者は、岩倉の秘書であった多田好問です。

「岩倉自身が記した」わけではありませんが、信ぴょう性は極めて高いと考えます。

岩倉具視

幕末維新の裏を知っている、という
よりも、麿が「裏側を作った」のだがな・・・

岩倉具視としては、幕末維新の「裏側を生み出した」思いが強かったでしょう。

後世から見れば、1968年に明治元年になり「王政復古により明治新政府誕生」となります。

ここで、「明治維」ながら「王政復」という、日本人らしい「新」と「古」が共存する維新。

実際は、徳川幕府の残党が日本全国におり、旧藩主の勢力も強かったのが明治初期の時代でした。

この幕末維新の時代を筆頭格で生き抜き、維新の三傑が「全員消えた」後の1883年に亡くなった岩倉。

そして、薩摩でも長州でもなく「公家」という特殊な立場から、幕末維新を見続けた岩倉。

1883年は明治16年であり、「明治になって16年経過した」時代でした。

一方で、「明治になって16年しか経過していない」時代でもありました。

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大日本帝国憲法発布(Wikipedia)

そして、岩倉が亡くなってから6年後の1889年に大日本帝国憲法が発布となりました。

ある意味では、「1889年に正式に大日本帝国が発足した」とも言えます。

この点では、討幕の1868年から1889年の間は「徳川王国から大日本帝国への移行期間」とも言えます。

この時代に起きた、最も大きく根幹的な大事件が、西南戦争でした。

早々に大久保内務卿に曖昧通報した大山県令:「私学校」の名称の意味

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岩倉公実記:皇后宮色御蔵版(新歴史紀行)
岩倉公実記

私学校ノ諸生ニシテ
隆盛ニ迫リ機ニ乗シ事ヲ挙ゲント・・・

岩倉公実記は「岩倉の視点」ですが、私学校の不穏すぎる状況を、ありありと描写しています。

私学校生徒

西郷先生!各地で反乱が起きている今、
今こそ決起すべきです!

西郷が、明治六年(1874年)の政変で辞職して鹿児島に帰郷後、設立した私学校。

この「辞職」は、西郷が「事実上の首相」であった視点から考えると、「西郷失脚」とも言えます。

西郷隆盛

私学校を設立し、
有為の若者を育てたい・・・

西郷は自らが維新の際に受領した賞典禄などを投げ打ち、「私学校=西郷学校」を設立しました。

この「私学校」という名前は、「私立中学・高校」や「私立大学」がある現在は、馴染みがあります。

「私学校=私立の学校」という意味であれば、「国立や公立ではない学校」という意味になります。

ここで、「薩摩ファースト」であった西郷ならば、他に名付ける名前が多数思い浮かびます。

例えば、「薩摩学校」あるいは「鹿児島学校」など。

これらの名称とせずに、あくまで「私(わたくし)の学校」と名付けた西郷。

西郷隆盛

勝手に華美な生活をする
バカがたくさん登場するし・・・

西郷隆盛

閣議で決定した事項が
ひっくり返るわ・・・

西郷隆盛

もうほとほと新政府には
愛想がついたごわす・・・

おそらく、当時はこんな気持ちで「投げやりな精神状況」だったであろう西郷。

西郷隆盛

学校名は「私学校」で
良か!

「私学校」という名称には、そんな西郷の「投げやり感」が強く感じられます。

薩摩の藩校であり、西郷も通っていた造士館などに類した名称にはせず、シンプルに私学校と命名しました。

薩摩大好きの西郷なので、他には「薩摩学校」なども考えられましたが、そのような名付けをしなかった西郷。

「薩摩学校」などに「名付けなかった」理由は、

西郷隆盛

一蔵(大久保)どんも
新政府にいるし・・・

西郷隆盛

薩摩との対立軸を
あまり先鋭化しない方が良か・・・

こんな西郷の気持ちもあったと考えます。

「西郷の秘密結社」とも言われる私学校では、生徒たちの方が暴発してしまった状況が描かれています。

西郷隆盛

し、
しもた!!!

筆者は、私学校によって西郷が「政府転覆を考えていなかった」と考えます。

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岩倉公実記:皇后宮色御蔵版(新歴史紀行)

岩倉公実記では、明治10年1月31日に、私学校生徒が暴発した事実が描かれています。

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鹿児島県令 大山綱良(Wikipedia)
大山綱良

ついに・・・
ついに私学校生徒が暴発したか・・・

幕末の三大志士グループ

・長州・松下村塾:高杉晋作、久坂玄瑞、前原一誠、伊藤博文、井上馨など

・薩摩・精忠組:西郷隆盛、大久保利通、有馬新七、大山綱良など

・肥前・義祭同盟:江藤新平、副島種臣、大木喬任など

幕末の三大志士グループの一つだった精忠組軍団。

名前生年
大山 綱良1825
西郷 隆盛1828
大久保 利通1830
村田 新八1836
篠原 国幹1837
桐野 利秋1839
別府 晋介1847
明治時代の有力旧薩摩藩士

そして、示現流の達人にして精忠組軍団の兄貴分であった大山綱良(格之助)は、薩摩県令でした。

大山綱良

おいどんは、
吉之助を応援し続けたが・・・

大山綱良

ついに、ついに、
吉之助と一蔵の戦争か・・・

「私学校暴発」の事実に対し、弟分であった「西郷と大久保の死闘の未来」を見た大山。

大山綱良

おいは、一蔵は
好かんぞ!

大山綱良

おいは、当然、吉之助を
応援する!

「西郷サイド」だった大山県令は、私学校暴発に悩みましたが、

大山綱良

まずは、一蔵に
知らせねば!

岩倉公実記

管下異状之届・・・
内務卿大久保利通殿・・・

鹿児島県令であった大山綱良は、暴発が発覚した2日後の明治十年(1877年)2月2日に、

大山綱良

何者とも分からぬ連中が
小銃弾薬を奪取しました!

大久保利通

承知
した!

ここで、「早めに通報した」大山は、あるいは「事態が行き過ぎないように」配慮したのかもしれません。

そして、「何者とも分からぬ連中」と「私学校生徒暴発」を隠蔽した大山県令。

国内の司令長官であった大久保内務卿への「早期通知」の一方で、「ぼやかした報告」をしました。

この大山県令の動きこそが、当時の薩摩内の空気を如実に表していると考えます。

そして、この動きには、西郷・大久保双方の「ある意志」が見て取れます。

西郷と大久保の正面衝突は、「出来れば避けたい」旧薩摩藩士上部の「悲壮で壮絶な意志」が。

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