前回は「私学校生徒に「迫られていた」西郷隆盛〜剣の達人大山綱良県令・「唯一人の陸軍大将」であり続けた西郷・篠原+桐野と私学校〜」の話でした。
幕末維新の裏側を生み出した岩倉:薩摩でも長州でもない公家の視点

幕末維新の時期の真相を知るためには、多数の貴重な資料があります。
それらの資料の中でも、「幕末維新の大妖怪」岩倉具視による岩倉公実記は、極めて重要と考えます。
大久保利通日記や木戸孝允日記のように、岩倉自身の日記ではありませんが、

幕末維新の表も裏も
全て知っている麿が・・・



未来のために
記録を残しておこうぞ・・・
岩倉公実記の作者は、岩倉の秘書であった多田好問です。
「岩倉自身が記した」わけではありませんが、信ぴょう性は極めて高いと考えます。



幕末維新の裏を知っている、という
よりも、麿が「裏側を作った」のだがな・・・
岩倉具視としては、幕末維新の「裏側を生み出した」思いが強かったでしょう。
後世から見れば、1968年に明治元年になり「王政復古により明治新政府誕生」となります。
ここで、「明治維新」ながら「王政復古」という、日本人らしい「新」と「古」が共存する維新。
実際は、徳川幕府の残党が日本全国におり、旧藩主の勢力も強かったのが明治初期の時代でした。
この幕末維新の時代を筆頭格で生き抜き、維新の三傑が「全員消えた」後の1883年に亡くなった岩倉。
そして、薩摩でも長州でもなく「公家」という特殊な立場から、幕末維新を見続けた岩倉。
1883年は明治16年であり、「明治になって16年も経過した」時代でした。
一方で、「明治になって16年しか経過していない」時代でもありました。


そして、岩倉が亡くなってから6年後の1889年に大日本帝国憲法が発布となりました。
ある意味では、「1889年に正式に大日本帝国が発足した」とも言えます。
この点では、討幕の1868年から1889年の間は「徳川王国から大日本帝国への移行期間」とも言えます。
この時代に起きた、最も大きく根幹的な大事件が、西南戦争でした。
早々に大久保内務卿に曖昧通報した大山県令:「私学校」の名称の意味





私学校ノ諸生ニシテ
隆盛ニ迫リ機ニ乗シ事ヲ挙ゲント・・・
岩倉公実記は「岩倉の視点」ですが、私学校の不穏すぎる状況を、ありありと描写しています。



西郷先生!各地で反乱が起きている今、
今こそ決起すべきです!
西郷が、明治六年(1874年)の政変で辞職して鹿児島に帰郷後、設立した私学校。
この「辞職」は、西郷が「事実上の首相」であった視点から考えると、「西郷失脚」とも言えます。



私学校を設立し、
有為の若者を育てたい・・・
西郷は自らが維新の際に受領した賞典禄などを投げ打ち、「私学校=西郷学校」を設立しました。
この「私学校」という名前は、「私立中学・高校」や「私立大学」がある現在は、馴染みがあります。
「私学校=私立の学校」という意味であれば、「国立や公立ではない学校」という意味になります。
ここで、「薩摩ファースト」であった西郷ならば、他に名付ける名前が多数思い浮かびます。
例えば、「薩摩学校」あるいは「鹿児島学校」など。
これらの名称とせずに、あくまで「私(わたくし)の学校」と名付けた西郷。



勝手に華美な生活をする
バカがたくさん登場するし・・・



閣議で決定した事項が
ひっくり返るわ・・・



もうほとほと新政府には
愛想がついたごわす・・・
おそらく、当時はこんな気持ちで「投げやりな精神状況」だったであろう西郷。



学校名は「私学校」で
良か!
「私学校」という名称には、そんな西郷の「投げやり感」が強く感じられます。
薩摩の藩校であり、西郷も通っていた造士館などに類した名称にはせず、シンプルに私学校と命名しました。
薩摩大好きの西郷なので、他には「薩摩学校」なども考えられましたが、そのような名付けをしなかった西郷。
「薩摩学校」などに「名付けなかった」理由は、



一蔵(大久保)どんも
新政府にいるし・・・



薩摩との対立軸を
あまり先鋭化しない方が良か・・・
こんな西郷の気持ちもあったと考えます。
「西郷の秘密結社」とも言われる私学校では、生徒たちの方が暴発してしまった状況が描かれています。



し、
しもた!!!
筆者は、私学校によって西郷が「政府転覆を考えていなかった」と考えます。


岩倉公実記では、明治10年1月31日に、私学校生徒が暴発した事実が描かれています。





ついに・・・
ついに私学校生徒が暴発したか・・・
・長州・松下村塾:高杉晋作、久坂玄瑞、前原一誠、伊藤博文、井上馨など
・薩摩・精忠組:西郷隆盛、大久保利通、有馬新七、大山綱良など
・肥前・義祭同盟:江藤新平、副島種臣、大木喬任など
幕末の三大志士グループの一つだった精忠組軍団。
名前 | 生年 |
大山 綱良 | 1825 |
西郷 隆盛 | 1828 |
大久保 利通 | 1830 |
村田 新八 | 1836 |
篠原 国幹 | 1837 |
桐野 利秋 | 1839 |
別府 晋介 | 1847 |
そして、示現流の達人にして精忠組軍団の兄貴分であった大山綱良(格之助)は、薩摩県令でした。



おいどんは、
吉之助を応援し続けたが・・・



ついに、ついに、
吉之助と一蔵の戦争か・・・
「私学校暴発」の事実に対し、弟分であった「西郷と大久保の死闘の未来」を見た大山。



おいは、一蔵は
好かんぞ!



おいは、当然、吉之助を
応援する!
「西郷サイド」だった大山県令は、私学校暴発に悩みましたが、



まずは、一蔵に
知らせねば!



管下異状之届・・・
内務卿大久保利通殿・・・
鹿児島県令であった大山綱良は、暴発が発覚した2日後の明治十年(1877年)2月2日に、



何者とも分からぬ連中が
小銃弾薬を奪取しました!



承知
した!
ここで、「早めに通報した」大山は、あるいは「事態が行き過ぎないように」配慮したのかもしれません。
そして、「何者とも分からぬ連中」と「私学校生徒暴発」を隠蔽した大山県令。
国内の司令長官であった大久保内務卿への「早期通知」の一方で、「ぼやかした報告」をしました。
この大山県令の動きこそが、当時の薩摩内の空気を如実に表していると考えます。
そして、この動きには、西郷・大久保双方の「ある意志」が見て取れます。
西郷と大久保の正面衝突は、「出来れば避けたい」旧薩摩藩士上部の「悲壮で壮絶な意志」が。