大久保が暫し「手元に置いた」西郷反乱の情報〜大久保から岩倉へ・不安定な明治維新の成立と明治六年の政変・「萩の乱」の大ショック・維新の原動力=松下村塾の反撃〜|岩倉公実記5・西南戦争・エピソード

前回は「早々に大久保内務卿に曖昧通報した大山県令〜「私学校」の名称の意味・幕末維新の裏側を生み出した岩倉・薩摩でも長州でもない公家の視点〜」の話でした。

目次

不安定な明治維新の成立と明治六年の政変

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明治六年の政変で下野した人物たち:左上から時計回りに、西郷隆盛、後藤象二郎、板垣退助、江藤新平(Wikipedia)

1873年の「明治六年の政変」によって、下野した西郷隆盛たち、明治新政府の大幹部たち。

西郷隆盛

一度決定したことを
勝手に覆すとは!

「征韓論」における「意見の食い違い」と表現されることも多い、この政変。

実態は、明治新政府大幹部内の「内なる戦争=内輪揉め」でした。

江藤新平

西郷参議が、
朝鮮へ派遣されることは、既に決定事項!

岩倉具視

そんな「決定事項」など
麿には関係ない!

この時は、岩倉の「政治力」というよりも「鋼鉄の精神力」で、西郷たちを振り切った明治新政府。

明治維新が成立したのは1868年ですが、この時期は、まだまだ箱館戦争などが残っていました。

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幕末の優れた幕臣たち:左上から時計回りに、榎本武揚、小栗忠順、川路聖謨、勝海舟(WIkipedia)
榎本武揚

蝦夷に新たな
共和国をつくる!

「穏健な革命」と言われる明治維新ですが、一時は明らかな「内乱状態」にありました。

そして、1869年に榎本武揚らの「徳川幕府の残党」が正式に降伏し、

榎本武揚

腹を切るべきだが、
新たな国家に尽くすのも・・・

正式に「徳川幕府の時代」が終了しました。

この観点から見て、「新たな時代」が成立したのは1869年であり、ここからが正式な明治時代です。

そして、そのたった4年後に「明治六年の政変」が勃発し、

江藤新平

明治新政府を
叩き潰して、新たな世を!

翌年の1874には、佐賀の乱が勃発し、江藤率いる佐賀軍は即鎮圧されました。

そして、各地で大小様々な乱が勃発し、明治新政府の立場は、極めて不安定化しました。

「萩の乱」の大ショック:維新の原動力=松下村塾の反撃

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長州の志士たち:左上から時計回りに久坂玄瑞、木戸孝允、前原一誠、高杉晋作(国立国会図書館)

さらに極め付けは、1876年の萩の乱の勃発でした。

前原一誠

新政府のやり方は、
許せん!

幕末に多数の星が登場しましたが、「戦い過ぎた」ために、大勢が亡くなってしまった長州。

幕末の三大志士グループ

・長州・松下村塾:高杉晋作、久坂玄瑞、前原一誠、伊藤博文など

・薩摩・精忠組:西郷隆盛、大久保利通、有馬新七、大山綱良など

・肥前・義祭同盟:江藤新平、副島種臣、大木喬任など

「薩長土肥」と表現されるものの、明らかに「薩長+土肥」であり、「薩長中心」だった明治維新。

長州藩のボスは木戸孝允ですが、松下村塾出身たちが、極めて強い原動力となりました。

そして、その「強い原動力」を成し遂げたが為に、

久坂玄瑞

む、
無念だ・・・

「若きホープ」筆頭だった久坂玄瑞は、1864年の禁門の変で自決。

高杉晋作

もっと、
陸でも海でも闘いたかったな・・・

まさに「闘い続けた」男だった高杉晋作は、維新成立直前の1867年に病死しました。

高杉は病死ですが、度重なる戦争による疲労が原因であり、事実上「戦死」でした。

前原一誠

木戸は
松下村塾生ではない!

木戸孝允

前原の
バカめが!

「水と油」のように犬猿の仲であった、木戸孝允と前原一誠。

前原一誠

我が松下村塾は、
こんな政府を作るために戦ったのではないわ!

明治新政府には、伊藤博文、井上馨らの「村塾出身の大幹部」がいました。

その中、「松下村塾出身の兄貴分」だった前原が起こした萩の乱。

前原一誠

もう一度
維新を!

明治新政府は、猛然と鎮圧に走りましたが、「萩の乱」の大ショックは極めて強いものでした。

実態としては、「萩の乱」というよりも「長州の乱」であった反乱が起きた状況に対し、

大久保利通

「長州の乱」が起きた
ということは・・・

薩摩出身の大久保内務卿は、「薩摩の乱」を現実視せざるを得ない状況となりました。

大久保が暫し「手元に置いた」西郷反乱の情報:大久保から岩倉へ

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岩倉公実記:皇后宮色御蔵版(新歴史紀行)
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岩倉公実記:皇后宮色御蔵版(新歴史紀行)

鹿児島県令であった大山綱良は、暴発が発覚した2日後の明治十年(1877年)2月2日、

大山綱良

何者とも分からぬ連中が
小銃弾薬を奪取しました!

曖昧な表現ながら「緊急事態」を、「上司」である大久保内務卿に通報しました。

明治新政府の機構では、「大山の上司」である大久保ですが、元々は「大久保の上司」だった大山。

名前生年
大山 綱良1825
西郷 隆盛1828
大久保 利通1830
村田 新八1836
篠原 国幹1837
桐野 利秋1839
別府 晋介1847
明治時代の有力旧薩摩藩士
大山綱良

一蔵が政府の中心人物、とは
笑わせるが・・・

大山綱良

一応、
知らせねばな・・・

元々の上下関係は、そうそう変わるものではなく、大山県令はこんな気持ちだったでしょう。

そして、汽船「三国丸」で、この書状を東京に発送した事実が描かれています。

飛行機も電車もなかった江戸時代では、水運が現代よりもはるかに重要でした。

幕末維新の頃も、幕府・諸藩ともに「急ぐ場合は汽船か軍艦」で移動していました。

大久保利通

ついに、
ついに、勃発したか・・・

そして、大山県令からの「通報」を最初に得たのが大久保内務卿でした。

大久保利通

右大臣岩倉殿、
鹿児島県令から、このような情報が来ました。

そして、大久保は、「最高意思決定者」であった岩倉に同年2月10日に書状で知らせました。

岩倉具視

ついに・・・
ついに、西郷が決起したか・・・

岩倉具視

・・・・・

岩倉具視

我が明治新政府は
大丈夫なのだろうか?

特に、当時「最重要地」の一つであった鹿児島と東京の間は、「船便が整えられていた」はずです。

すると、2月2日に船便で出された諸城は、数日後の2月8日頃には「大久保の手元に入った」と思われます。

そもそも、「近代化」を猛烈に急いだ明治新政府は、電信を各地に整備しました。

1869年「東京-横浜」間に始まり、1873年には「東京-長崎」間も電信が始まりました。

大久保の慎重な性格を考えると、大久保が「非常事態」を知ったのは、もう少し早そうです。

おそらく、大久保は「薩摩反乱の一報」を受けて、

大久保利通

この私の手元で、
少し置いておこう・・・

この様に考え、大久保は「事態の沈静化」を考え続けた、と思われます。

このタイムラグには、大久保の意図が感じられます。

「幼い頃からの盟友であり続け、新政府の事実上の巨頭である西郷との大決裂を避けたい」気持ちが。

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