前回は「早々に大久保内務卿に曖昧通報した大山県令〜「私学校」の名称の意味・幕末維新の裏側を生み出した岩倉・薩摩でも長州でもない公家の視点〜」の話でした。
不安定な明治維新の成立と明治六年の政変

1873年の「明治六年の政変」によって、下野した西郷隆盛たち、明治新政府の大幹部たち。

一度決定したことを
勝手に覆すとは!
「征韓論」における「意見の食い違い」と表現されることも多い、この政変。
実態は、明治新政府大幹部内の「内なる戦争=内輪揉め」でした。



西郷参議が、
朝鮮へ派遣されることは、既に決定事項!



そんな「決定事項」など
麿には関係ない!
この時は、岩倉の「政治力」というよりも「鋼鉄の精神力」で、西郷たちを振り切った明治新政府。
明治維新が成立したのは1868年ですが、この時期は、まだまだ箱館戦争などが残っていました。





蝦夷に新たな
共和国をつくる!
「穏健な革命」と言われる明治維新ですが、一時は明らかな「内乱状態」にありました。
そして、1869年に榎本武揚らの「徳川幕府の残党」が正式に降伏し、



腹を切るべきだが、
新たな国家に尽くすのも・・・
正式に「徳川幕府の時代」が終了しました。
この観点から見て、「新たな時代」が成立したのは1869年であり、ここからが正式な明治時代です。
そして、そのたった4年後に「明治六年の政変」が勃発し、



明治新政府を
叩き潰して、新たな世を!
翌年の1874には、佐賀の乱が勃発し、江藤率いる佐賀軍は即鎮圧されました。
そして、各地で大小様々な乱が勃発し、明治新政府の立場は、極めて不安定化しました。
「萩の乱」の大ショック:維新の原動力=松下村塾の反撃


さらに極め付けは、1876年の萩の乱の勃発でした。



新政府のやり方は、
許せん!
幕末に多数の星が登場しましたが、「戦い過ぎた」ために、大勢が亡くなってしまった長州。
・長州・松下村塾:高杉晋作、久坂玄瑞、前原一誠、伊藤博文など
・薩摩・精忠組:西郷隆盛、大久保利通、有馬新七、大山綱良など
・肥前・義祭同盟:江藤新平、副島種臣、大木喬任など
「薩長土肥」と表現されるものの、明らかに「薩長+土肥」であり、「薩長中心」だった明治維新。
長州藩のボスは木戸孝允ですが、松下村塾出身たちが、極めて強い原動力となりました。
そして、その「強い原動力」を成し遂げたが為に、



む、
無念だ・・・
「若きホープ」筆頭だった久坂玄瑞は、1864年の禁門の変で自決。



もっと、
陸でも海でも闘いたかったな・・・
まさに「闘い続けた」男だった高杉晋作は、維新成立直前の1867年に病死しました。
高杉は病死ですが、度重なる戦争による疲労が原因であり、事実上「戦死」でした。



木戸は
松下村塾生ではない!



前原の
バカめが!
「水と油」のように犬猿の仲であった、木戸孝允と前原一誠。



我が松下村塾は、
こんな政府を作るために戦ったのではないわ!
明治新政府には、伊藤博文、井上馨らの「村塾出身の大幹部」がいました。
その中、「松下村塾出身の兄貴分」だった前原が起こした萩の乱。



もう一度
維新を!
明治新政府は、猛然と鎮圧に走りましたが、「萩の乱」の大ショックは極めて強いものでした。
実態としては、「萩の乱」というよりも「長州の乱」であった反乱が起きた状況に対し、



「長州の乱」が起きた
ということは・・・
薩摩出身の大久保内務卿は、「薩摩の乱」を現実視せざるを得ない状況となりました。
大久保が暫し「手元に置いた」西郷反乱の情報:大久保から岩倉へ




鹿児島県令であった大山綱良は、暴発が発覚した2日後の明治十年(1877年)2月2日、



何者とも分からぬ連中が
小銃弾薬を奪取しました!
曖昧な表現ながら「緊急事態」を、「上司」である大久保内務卿に通報しました。
明治新政府の機構では、「大山の上司」である大久保ですが、元々は「大久保の上司」だった大山。
名前 | 生年 |
大山 綱良 | 1825 |
西郷 隆盛 | 1828 |
大久保 利通 | 1830 |
村田 新八 | 1836 |
篠原 国幹 | 1837 |
桐野 利秋 | 1839 |
別府 晋介 | 1847 |



一蔵が政府の中心人物、とは
笑わせるが・・・



一応、
知らせねばな・・・
元々の上下関係は、そうそう変わるものではなく、大山県令はこんな気持ちだったでしょう。
そして、汽船「三国丸」で、この書状を東京に発送した事実が描かれています。
飛行機も電車もなかった江戸時代では、水運が現代よりもはるかに重要でした。
幕末維新の頃も、幕府・諸藩ともに「急ぐ場合は汽船か軍艦」で移動していました。



ついに、
ついに、勃発したか・・・
そして、大山県令からの「通報」を最初に得たのが大久保内務卿でした。



右大臣岩倉殿、
鹿児島県令から、このような情報が来ました。
そして、大久保は、「最高意思決定者」であった岩倉に同年2月10日に書状で知らせました。



ついに・・・
ついに、西郷が決起したか・・・



・・・・・



我が明治新政府は
大丈夫なのだろうか?
特に、当時「最重要地」の一つであった鹿児島と東京の間は、「船便が整えられていた」はずです。
すると、2月2日に船便で出された諸城は、数日後の2月8日頃には「大久保の手元に入った」と思われます。
そもそも、「近代化」を猛烈に急いだ明治新政府は、電信を各地に整備しました。
1869年「東京-横浜」間に始まり、1873年には「東京-長崎」間も電信が始まりました。
大久保の慎重な性格を考えると、大久保が「非常事態」を知ったのは、もう少し早そうです。
おそらく、大久保は「薩摩反乱の一報」を受けて、



この私の手元で、
少し置いておこう・・・
この様に考え、大久保は「事態の沈静化」を考え続けた、と思われます。
このタイムラグには、大久保の意図が感じられます。
「幼い頃からの盟友であり続け、新政府の事実上の巨頭である西郷との大決裂を避けたい」気持ちが。