薩摩武士目指した小沢治三郎の実像〜兄の上官からの手紙に奮起・不良少年との喧嘩沙汰で中学退校処分・日露戦争下の張り詰めた雰囲気〜|小沢治三郎2・能力・エピソード

前回は「空母機動部隊の生みの親・小沢治三郎の実像〜独創的斬新な戦法への異常な執着・古い「海戦要務令」を公然と批判・大艦巨砲主義に対抗する「航空艦隊編成」〜」の話でした。

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小沢治三郎 南遣艦隊司令長官(別冊歴史読本 戦記シリーズNo.65 「空母機動部隊」新人物往来社)
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不良少年との喧嘩沙汰で中学退校処分:日露戦争下の張り詰めた雰囲気

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鶴丸城趾(新歴史紀行)

1886年に宮崎県で生まれた小沢治三郎。

父は元高鍋藩士であったため、武士の家系に生まれた小沢少年は、

小沢治三郎

僕は、将来
武士のような軍人になりたい!

きっと、小さな頃から「武士のような軍人」を目指していたと思われます。

そして、地元の宮崎中学に進んで勉強に励んだ小沢少年でしたが、

不良少年X

おいっ!
お前、生意気だな!

小沢治三郎

な、なんだと、
貴様、俺を馬鹿にするのか!

ふとしたことから、不良少年に絡まれてしまい、喧嘩になりました。

小沢治三郎

俺の柔道を
受けてみろ!

不良少年X

く、くそっ!
覚えていろよ!

「武士の家系」を大事にしていたため、小さな頃から武芸に励んでいたため柔道が得意だった小沢少年。

そして、不良少年を容易に撃退しましたが、

教員A

おい、小沢・・・
いくら何でもやり過ぎだ・・・

教員A

学校としては、
こんな喧嘩沙汰を見逃すわけにはいかん!

教員A

お前を退校処分と
する!

そして、宮崎中学をあっさり対抗処分となってしまいました。

小沢治三郎

くそっ、
悪いのは不良の連中なのに・・・

現代では、義務教育の中学を簡単には退学にはできないはずですが、当時は倫理観が強かったのでしょう。

時は日露戦争中で、日本国民が一丸となって「ロシアとの死闘」を推進していた時代でした。

学校側の論理としては、

教員A

大陸でロシア軍と
我が帝国陸軍が戦っているというのに・・・

教員A

こんな喧嘩沙汰で、
同志討ちのようなことをして、どうする!

逼迫した「恐露意識」が強い中、学生同士の「行きすぎた喧嘩」に激怒したのでしょう。

日露戦争下の張り詰めた雰囲気に、大日本帝国中が「極めて強い緊張」の中にありました。

小沢治三郎

学校を退学に
なって、どうしようか・・・

不良少年を撃退したはずの治三郎でしたが、自分が不良への道を歩みそうになっていました。

兄・宇一郎

治三郎が、喧嘩で
中学退学か・・・

当時、満州でロシアと激闘を繰り広げていた兄・宇一郎はガッカリしました。

薩摩武士目指した小沢治三郎の実像:兄の上官からの手紙に奮起

New Historical Voyage
牛島貞雄 歩兵中隊長(Wikipedia)

ここで、戦場の地・満州で、兄・宇一郎は上官に相談しました。

兄・宇一郎

牛島中隊長殿、
我が弟が喧嘩で中学退学となりまして・・・

牛島貞雄

なにっ!
喧嘩で中学中退だと!

牛島貞雄

・・・・・

牛島貞雄

まあ驚きだが、
そこまでやるのは見込みがあるな!

牛島貞雄

将来は軍人になって、
帝国のために役立つと良い!

牛島貞雄

よしっ!
俺が君の弟に手紙を書いてやろう!

兄・宇一郎

あ、有難う
御座います!

そして、宇一郎の上司であった牛島貞雄は、小沢治三郎少年に手紙を書きました。

牛島貞雄

過ちを改むるに
憚ること勿れ・・・

論語からの言葉で、「過ちを犯したら、即座に改めて生き直せ」くらいの意味でした。

小沢治三郎

よしっ!
喧嘩は確かに良くなかった!

小沢治三郎

こうなったら、
上京して、やり直しだ!

牛島からの手紙で奮起した小沢は、この手紙を生涯大事にしたそうです。

小沢治三郎

この手紙が、
私の人生を変えてくれた!

そして、宮崎から上京して、出直すことにした治三郎少年は、成城中学校に入学しました。

武士の家系だけあって成城付近に親戚がいて、宮崎から一転して都会ライフを楽しんだ小沢。

小沢治三郎

よしっ!
一生懸命勉強してやる!

東京でも喧嘩沙汰を多少起こしながらも、概ね勉強に勤しんだ小沢少年。

いよいよ、大学に入学する年頃になり、

小沢治三郎

よしっ!
海軍軍人目指して海兵受験だ!

「武士の家系から軍人へ」を目指した小沢青年は、海軍のエリート目指して海兵を受験しました。

ただ、この頃の小沢は、

小沢治三郎

造船の専門家も
良いかもな・・・

「技術者も面白い」と思っていて、通常の大学を受験することにしました。

当時、東京にいたので、東京付近の大学を受験するのが普通でしたが、

小沢治三郎

やはり、武士といったら
薩摩!

小沢治三郎

薩摩の造士館が
源流の第七高等学校へ!

旧薩摩藩の造士館が転じて大学となった、第七高等学校を受験しました。

現在の鹿児島大学であり、偏差値が主流の現代の視点では、「海兵や帝大の下」となります。

設置年大学名
1868年陸軍士官学校(前身の兵学校)
1869年海軍兵学校(前身の海軍操練所)
1877年東京帝国大学(帝国大学)
1897年京都帝国大学
1907年東北帝国大学
1911年九州帝国大学
1918年北海道帝国大学
1924年京城帝国大学(韓国、のちに廃止)
1928年台北帝国大学(台湾、のちに廃止)
1931年大阪帝国大学
1939年名古屋帝国大学
海軍兵学校・陸軍士官学校・帝国大学設置年(Wikipedia)

一方で、当時は1906年であり、明治維新の雰囲気が色濃く残っていました。

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薩摩藩出身の幕末〜明治の将星: 左上から時計回りに、西郷隆盛、大久保利通、大山巌、東郷平八郎(Wikipedia)

偏差値主義ではなかった当時の考えから、旧造士館の第七高等学校は「男子の誉れ」だったでしょう。

小沢治三郎

薩摩武士の
ように生きるのだ!

そして、見事、難関だった第七高等学校に合格した小沢でしたが、

海軍兵学校

カイヘイゴウカク、
イインチョウ・・・

「海兵合格」の電報を受け取り、

小沢治三郎

やはり、海軍軍人を
目指そう!

海軍兵学校入学を決断した小沢青年。

「技術者も又良し」と考えていた小沢は、この頃から「理系的発想の戦略・戦術」を好んでいたでしょう。

未来の「空母機動部隊の海の親」の萌芽が、既に芽生えていた小沢青年でした。

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