空母機動部隊の生みの親・小沢治三郎の実像〜独創的斬新な戦法への異常な執着・古い「海戦要務令」を公然と批判・大艦巨砲主義に対抗する「航空艦隊編成」〜|小沢治三郎1・能力・エピソード

前回は「大艦巨砲主義の権化・宇垣纏の実像〜戦艦大和への強い思い・軍令部第一部長から「連合艦隊の中心司令部」参謀長へ・宇垣参謀長を「毛嫌いしていた」山本長官の真意・非優等生への期待〜」の話でした。

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小沢治三郎 南遣艦隊司令長官(別冊歴史読本 戦記シリーズNo.65 「空母機動部隊」新人物往来社)
目次

空母機動部隊の生みの親・小沢治三郎の実像

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第一航空艦隊(ビッグマンスペシャル 連合艦隊上巻 勃興編 世界文化社)

「空母機動部隊の生みの親」と表現されることが多い小沢治三郎。

1941年の真珠湾奇襲攻撃では、正規空母6隻という空前の大機動部隊が米海軍に襲い掛かりました。

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山本五十六 連合艦隊司令長官(連合艦隊司令長官 別冊歴史読本 新人物往来社)

この真珠湾奇襲攻撃を強行したのは、時の山本五十六連合艦隊司令長官です。

とにかく、
何が何でも、緒戦で米海軍に大ダメージを与える!

と言う「尋常ならざる意気込み」を持っていた山本長官。

「海軍空母航空隊の育ての親」である山本五十六。

海軍兵学校卒業期職責名前
28軍令部総長永野修身
31海軍大臣及川古志郎
32連合艦隊司令長官山本五十六
海軍兵学校卒業期(真珠湾奇襲攻撃決定時)

軍令・軍政に権限が分かれ、前線の最高指揮官に過ぎなかった連合艦隊司令長官。

いかに「空母機動部隊が大事」と言っても、その空母機動部隊が存在しなければなりません。

多数の空母と航空機、
そして、航空隊を育てる!

この点で、「軍政の覇王」とも言うべき山本五十六は、この「軍政側から育てる」のに最適な人材でした。

そして、この空母機動部隊を「具体的な戦略面から育てた」のが

空母はバラバラではなく、
集中運用すべきだ!

小沢治三郎でした。

独創的斬新な戦法への異常な執着:古い「海戦要務令」を公然と批判

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世界で初めて建艦された空母:英空母Hermes(Wikipedia)

後世、第二次世界大戦勃発の頃が「戦艦から空母へ」の時代と言われます。

そして、1920年頃から世界中の海軍で「空母航空隊の試み」がなされていました。

当時、世界中に植民地を有し、「世界一の海軍」であった大英帝国海軍が先鞭をつけました。

1918年に「世界で初めて建艦」されたのが、英空母Hermesです。

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世界で初めて完成した空母:日空母 鳳翔(Wikipedia)

2年遅れて、1920年に建艦開始したのが、大日本帝国海軍初めての空母 鳳翔でした。

遅れて建艦開始したものの、この頃世界の列強の仲間入りして、海軍力の強化を図っていた日本。

猛烈な勢いで鳳翔の建造を果たし、異例の速さで嫌韓を完了しました。

1921年に進水、1922年に完成した「世界で初めて完成した空母」となった鳳翔。

将来は
海軍軍人になるぞ!

1886年に生誕し、1906年に海兵37期に進学した小沢治三郎。

卒業時の成績は「45番/179名中」であり、「まあまあ優秀」だった小沢。

その後は、水雷畑を進む中、優れた戦略家・戦術家としての地位を確立してゆきました。

順調に出世を続けた小沢は、1931年に海軍大学校校長に就任しました。

校長となった小沢は、

このように、教科書を
丸暗記するような勉強では・・・

時代の変化に
追いついて行かんだろう・・・

と感じたのでしょう。

「世界初の空母」鳳翔が完成して9年後の1931年は、満州事変が勃発しました。

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満州国建国(Wikipedia)

当時の日本からすれば、「列強への対抗上、満州への進出は必須」だったのでしょう。

いずれにしても、陸軍中心の大日本帝国軍でしたが、海軍の重要性は増すばかりでした。

この中、海大校長となった小沢は、生徒たちに対して、

固着した海戦要務令に捉われず、
独創的斬新な戦法を研究せよ!

と指導し、他の海大校長と「一線を画す」姿勢を明確にしました。

これこそが、戦略家・戦術家として、当時の日本海軍最先端の小沢の姿勢でした。

大艦巨砲主義に対抗する「航空艦隊編成」

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戦艦大和(Wikipedia)

その後も、大日本帝国海軍の中枢を走り続けた小沢治三郎。

日中戦争が勃発した1937年には、連合艦隊参謀長となりました。

連合艦隊の
作戦を大きく変えてみせる!

小沢はこう意気込んでいたでしょう。

一方で、ちょうどこの年には戦艦大和の建艦が開始しました。

日本のみならず世界中の海軍では、まだまだ「戦艦中心」の思想だったのが現実でした。

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大英帝国 1921年(Wikipedia)

この1937年頃は「かつての先生」であり、世界最強海軍であった大英帝国を抜いていた大日本帝国。

世界中に植民地を持ち、「海を支配していた」大英帝国。

一方で、大英帝国の敵はドイツなどであり、欧州は海が少なく大陸が中心でした。

そのため、直接の国防は海軍よりも陸軍の方が強かったでしょう。

この頃、中国と死闘を演じていた小沢治三郎連合艦隊司令長官は、

海軍の戦闘で大事なのは、
アウトレンジだ!

ずっと「アウトレンジ戦法」を主軸としてきた、小沢の戦略。

空母をもっと集めて、
空母数隻の航空艦隊を創設しよう!

と主張するも、

空母は
戦艦の補助艦ですから・・・

と言う声が強く、さらに戦艦大和・武蔵にかける意気込みが強かった大日本帝国海軍では、

敵を叩き潰すのは、
戦艦大和・武蔵が中心です!

であり、小沢の斬新な発想は、ほとんど受け入れられませんでした。

真珠湾奇襲攻撃に先立つこと4年。

まだまだ、小沢治三郎が目論んでいた「空母機動部隊」は生まれませんでした。

それでもなお、

私は独創的な戦略には
大いに自信がある!

自分に自信を持っていた小沢は、一生懸命、「空母機動部隊創設」の意見書を作成しました。

「航空艦隊編成に関する意見書」を
作成して、提出しよう・・・

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吉田善吾 海軍大臣(Wikipedia)

そして、時の海軍大臣であった吉田善吾大臣に「航空艦隊編成に関する意見書」を提出した小沢。

小沢が考えていた「航空艦隊」が、少しずつ明確な形になってきていました。

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