前回は「大艦巨砲主義の権化・宇垣纏の実像〜戦艦大和への強い思い・軍令部第一部長から「連合艦隊の中心司令部」参謀長へ・宇垣参謀長を「毛嫌いしていた」山本長官の真意・非優等生への期待〜」の話でした。
空母機動部隊の生みの親・小沢治三郎の実像
「空母機動部隊の生みの親」と表現されることが多い小沢治三郎。
1941年の真珠湾奇襲攻撃では、正規空母6隻という空前の大機動部隊が米海軍に襲い掛かりました。
この真珠湾奇襲攻撃を強行したのは、時の山本五十六連合艦隊司令長官です。
とにかく、
何が何でも、緒戦で米海軍に大ダメージを与える!
と言う「尋常ならざる意気込み」を持っていた山本長官。
「海軍空母航空隊の育ての親」である山本五十六。
海軍兵学校卒業期 | 職責 | 名前 | ||
28 | 軍令部総長 | 永野修身 | ||
31 | 海軍大臣 | 及川古志郎 | ||
32 | 連合艦隊司令長官 | 山本五十六 |
軍令・軍政に権限が分かれ、前線の最高指揮官に過ぎなかった連合艦隊司令長官。
いかに「空母機動部隊が大事」と言っても、その空母機動部隊が存在しなければなりません。
多数の空母と航空機、
そして、航空隊を育てる!
この点で、「軍政の覇王」とも言うべき山本五十六は、この「軍政側から育てる」のに最適な人材でした。
そして、この空母機動部隊を「具体的な戦略面から育てた」のが
空母はバラバラではなく、
集中運用すべきだ!
小沢治三郎でした。
独創的斬新な戦法への異常な執着:古い「海戦要務令」を公然と批判
後世、第二次世界大戦勃発の頃が「戦艦から空母へ」の時代と言われます。
そして、1920年頃から世界中の海軍で「空母航空隊の試み」がなされていました。
当時、世界中に植民地を有し、「世界一の海軍」であった大英帝国海軍が先鞭をつけました。
1918年に「世界で初めて建艦」されたのが、英空母Hermesです。
2年遅れて、1920年に建艦開始したのが、大日本帝国海軍初めての空母 鳳翔でした。
遅れて建艦開始したものの、この頃世界の列強の仲間入りして、海軍力の強化を図っていた日本。
猛烈な勢いで鳳翔の建造を果たし、異例の速さで嫌韓を完了しました。
1921年に進水、1922年に完成した「世界で初めて完成した空母」となった鳳翔。
将来は
海軍軍人になるぞ!
1886年に生誕し、1906年に海兵37期に進学した小沢治三郎。
卒業時の成績は「45番/179名中」であり、「まあまあ優秀」だった小沢。
その後は、水雷畑を進む中、優れた戦略家・戦術家としての地位を確立してゆきました。
順調に出世を続けた小沢は、1931年に海軍大学校校長に就任しました。
校長となった小沢は、
このように、教科書を
丸暗記するような勉強では・・・
時代の変化に
追いついて行かんだろう・・・
と感じたのでしょう。
「世界初の空母」鳳翔が完成して9年後の1931年は、満州事変が勃発しました。
当時の日本からすれば、「列強への対抗上、満州への進出は必須」だったのでしょう。
いずれにしても、陸軍中心の大日本帝国軍でしたが、海軍の重要性は増すばかりでした。
この中、海大校長となった小沢は、生徒たちに対して、
固着した海戦要務令に捉われず、
独創的斬新な戦法を研究せよ!
と指導し、他の海大校長と「一線を画す」姿勢を明確にしました。
これこそが、戦略家・戦術家として、当時の日本海軍最先端の小沢の姿勢でした。
大艦巨砲主義に対抗する「航空艦隊編成」
その後も、大日本帝国海軍の中枢を走り続けた小沢治三郎。
日中戦争が勃発した1937年には、連合艦隊参謀長となりました。
連合艦隊の
作戦を大きく変えてみせる!
小沢はこう意気込んでいたでしょう。
一方で、ちょうどこの年には戦艦大和の建艦が開始しました。
日本のみならず世界中の海軍では、まだまだ「戦艦中心」の思想だったのが現実でした。
この1937年頃は「かつての先生」であり、世界最強海軍であった大英帝国を抜いていた大日本帝国。
世界中に植民地を持ち、「海を支配していた」大英帝国。
一方で、大英帝国の敵はドイツなどであり、欧州は海が少なく大陸が中心でした。
そのため、直接の国防は海軍よりも陸軍の方が強かったでしょう。
この頃、中国と死闘を演じていた小沢治三郎連合艦隊司令長官は、
海軍の戦闘で大事なのは、
アウトレンジだ!
ずっと「アウトレンジ戦法」を主軸としてきた、小沢の戦略。
空母をもっと集めて、
空母数隻の航空艦隊を創設しよう!
と主張するも、
空母は
戦艦の補助艦ですから・・・
と言う声が強く、さらに戦艦大和・武蔵にかける意気込みが強かった大日本帝国海軍では、
敵を叩き潰すのは、
戦艦大和・武蔵が中心です!
であり、小沢の斬新な発想は、ほとんど受け入れられませんでした。
真珠湾奇襲攻撃に先立つこと4年。
まだまだ、小沢治三郎が目論んでいた「空母機動部隊」は生まれませんでした。
それでもなお、
私は独創的な戦略には
大いに自信がある!
自分に自信を持っていた小沢は、一生懸命、「空母機動部隊創設」の意見書を作成しました。
「航空艦隊編成に関する意見書」を
作成して、提出しよう・・・
そして、時の海軍大臣であった吉田善吾大臣に「航空艦隊編成に関する意見書」を提出した小沢。
小沢が考えていた「航空艦隊」が、少しずつ明確な形になってきていました。