前回は「第二次世界大戦における日本の「悪の権化」東條英機の実像〜超真面目な典型的日本人・憲兵隊による恐怖政治と「国家の空気」〜」の話でした。
「予想外に対米戦開戦時に総理大臣になった」東條英機の実像
対米戦の可能性が高まり、というよりも後世の視点から見れば「対米戦不可避」であった1941年8月頃。
時の総理大臣は、「政界のサラブレッド」である近衛文麿でした。
数ある公家の中でも「別格の存在」であったのが、摂関家・五摂家でした。
・近衛家
・一条家
・九条家
・鷹司家
・二条家
中でも、御所・禁裏を守るイメージが強い「近衛家」。
その名前からして、近衛家は摂関家・五摂家の中でも「群を抜いた存在」でした。
米国と戦うのは、
非常に厳しいが・・・
後世、「決断力がない」や「評論家のようだ」と酷評されることが多い近衛文麿。
筆者は、近衛文麿は相応の能力を持っていたものの「国家元首として胆力がやや欠けていた」人物と考えます。
なんとなく頼りにならない近衛首相に対して、
近衛首相のやり方は
手ぬるすぎる!
我が陸軍は、米国の無茶な要求など
呑むつもりは一切ない!
陸相を辞任した登場は、後任の陸相を出さなかったため、近衛内閣は倒閣してしまいました。
無念だ・・・
対米戦を回避したかった・・・
さてと・・・次の総理には、
もっと米国に強く人物を期待したいな・・・
真珠湾奇襲攻撃の1941年12月8日直前とも言える、同年10月18日に近衛内閣が倒閣し、ある人物が暗躍しました。
木戸幸一内大臣です。
「木戸」という変わった名前が示す通り、「木戸孝允の妹の子」が父で「木戸孝允は大叔父」になります。
これはなんとかしなければ・・・
東條や陸軍を抑える人物を総理に・・・
だが、横暴な陸軍や頑固な東條を抑えられる
人物などいるのか・・・
・・・・・
ここで、内大臣として「謎の強力な権力」を有していた木戸幸一は考えました。
明治維新以降、13名(正式には10代)の内大臣がいますが、多くは「名誉職」でありました。
江戸時代末期までの律令制度では、数多くの内大臣がおり、
内大臣 源(徳川)家康
なのだ!
徳川家康や豊臣秀吉も内大臣経験者です。
この名誉職に過ぎないはずのない大臣であった木戸幸一は、木戸孝允の影響からか、「謎の強権」を持っていました。
そうだ!
思いついたぞ!
東條と陸軍を抑え込むのは、
東條自身だ!
こう閃いた木戸は、昭和天皇に献言しました。
次の総理は東條英機が
最適かと・・・
そうか・・・
そのようにしよう・・・
東條よ!
爾に組閣を命ずる!
なんだって?!
これは困ったぞ・・・
こう考えたものの「超真面目」であり「天皇陛下への忠誠」においては、ダントツであった東條。
ははっ!
承知・・・承知致しました・・・
自分が総理になるとは、全く予想していなかった東條が新総理大臣となりました。
超真面目な東條英機と天才肌の石原莞爾:幻の石原の対米戦指揮
現代から見れば「悪の権化」と言われる東條英機は、典型的な「真面目な日本人」でした。
後に東條英機と「犬猿の仲」を超えて、「激しく憎しみ合う仲」となった石原莞爾。
若い頃から「帝国陸軍の異端児」と呼ばれ、その頭脳が極めて際立っていた石原。
1889年生まれの石原は、同じ陸軍士官として、東條英機の五歳下の後輩となります。
同年から三歳違いまでくらいは「ライバル意識」が生まれて、ギクシャクすることがあります。
一方で、五歳も年が違うと「明確な上下関係」が生まれます。
ところが、石原莞爾は、先輩・東條英機がよほど気に入らなかったらしく、
東條はなんの能もない
単なるバカ!
東條には思想というものが
全くない!
このように、東條英機のことをひたすら罵り続けた石原。
挙句の果てには、
東條英機は(超エリートである)
陸軍大学校を出ているらしいが・・・
東條程度の頭脳では
何にも出来んだろう・・
頭脳明晰は
私とは全然違うのだ!
まあ、東條は参謀や大臣を務める器ではなく、
東條一等兵だな!
ここまで言われて「大人しくしている」方がおかしい状況でした。
そこまで、俺を罵るならば、
貴様は消してくれるわ!
当時、陸軍の中核に位置していた東條は、若き天才的戦略家であった石原莞爾を予備役にしました。
極めて重要な対米戦開戦の1941年3月に、「天才戦略家・石原莞爾を予備役」にしたのでした。
つまり、極めて有能であった石原を「陸軍からクビ」にした東條。
なぜ、東條は石原のような優れた人物を
予備役にしたのだ?
この点もまた、東條の悪評に繋がっています。
東條からすれば、
陸軍を握る私に歯向かう
陸軍将校など、役に立たんわ!
役に立たんどころか、
そんな奴はマイナスの存在だわ!
ある意味で「陸軍をまとめる」ためには、東條サイドの視点では「やむ得ない」ことだったでしょう。
この「石原予備役」は、石原の方にも大きな問題があります。
もう少し、石原が大人しめで「東條と石原がまあまあ仲良かった」という「ifの歴史」。
この「ifの歴史」だったならば、アジア、特に中国戦線の歴史はだいぶ変わったでしょう。