前回は「羽柴秀吉との死闘に向かった滝川一益〜決裂した柴田勝家と羽柴秀吉・「本能寺の変」で急転した織田家重臣の運命・実権握った秀吉〜」の話でした。
織田家を支え続けた宿老の柴田勝家と滝川一益
本能寺の変直後の清洲会議では、秀吉に主導権を握られて、忿懣やるせない柴田勝家。
おのれ・・・
猿めが・・・
猿如きに・・・
おのれ・・・
本来であれば、実力・経歴共に考慮して、どう考えても「織田の未来は柴田が担う」のが必然でした。
名前 | 生年(一部諸説あり) |
織田信長 | 1534年 |
林秀貞 | 1513年 |
柴田勝家 | 1522年 |
滝川一益 | 1525年 |
明智光秀 | 1528年 |
佐久間信盛 | 1528年 |
丹羽長秀 | 1535年 |
羽柴秀吉 | 1537年 |
織田信長の父・織田信秀にも仕えた経歴がある柴田勝家。
秀吉よりも15歳も年上であり、秀吉が織田家に仕え始めた1554年頃は、すでに中堅でした。
勝家よりも9歳年上の林秀貞(通勝)は別格の年長者としても、柴田勝家からすれば、
俺が織田家を
支え続けたのだ!
俺が信長様の
そばに居続けたから、織田家は発展したのだ!
こう考えるのが当然でした。
そして、「柴田勝家の妹を妻としていた」説があり、柴田とはずっと仲良しだった滝川一益。
私と権六が
信長様を盛り立てたのだ!
そうよ!
桶狭間の時はワシは39歳・・・
あの時、
拙者は36歳・・・
織田信長をずっと守ってきた自負があるのが、柴田勝家と滝川一益の二人でした。
いわば、信長を主君と崇めながらも「実の弟のように愛情もって尽くしてきた」のが柴田と滝川。
この辺りは、信長の歳下であり「こき使われ続けた」秀吉や丹羽長秀には「分からない感情」でしょう。
本来ならば、素性すら定かではない羽柴秀吉などは、柴田勝家とは「格段下の立場」です。
ところが、
柴田殿、
逆賊・明智を討滅したは、この羽柴ですぞ!
そして、清洲会議では、羽柴派:羽柴秀吉+丹羽長秀+池田恒興の三人が大勢を占めました。
その結果、柴田勝家の発言力は大きく制限されることになったのでした。
おのれ・・・
猿め・・・
奴は織田家を
どうするつもりなのだ・・・
賤ヶ岳で対峙した柴田勝家と羽柴秀吉:甥・佐久間盛政の油断
やはり、
猿めを野放しにはできんわ!
織田家のため、
ワシが猿を叩き潰す!
ついに、織田家の中核を守り続けてきた織田家随一の飛武神・柴田勝家は、羽柴討滅に動きました。
猿など、
一揉みにしてくれるわ!
ついに、織田家最強の柴田勝家に率いられた「日本最強軍団・北陸方面軍」が動き出しました。
権六(柴田勝家)の
やりくちは分かっている・・・
「日本最強軍団・北陸方面軍」を前に、知恵者・羽柴秀吉は考えました。
権六も佐久間も猛将だから、
正面切って叩くのは不利・・・
ここは、
奇襲攻撃だな・・・
近江・賤ヶ岳で、柴田勝家と羽柴秀吉が決戦となります。
すでに時の勢いを、味方につけていた秀吉。
近江は、我が長浜城があり、
地形も全て知り尽くしているわ!
ノリに乗って、美濃と近江を暴れ回ります。
猿なんか、
敵ではないわ!
猛将・佐久間盛政は羽柴方の歴戦の武将・中川清秀を打ち取りました。
中川清秀を
討ち取ったぜ!
この勢いで、
猿の首を取るぜ!
猛将・佐久間盛政は「一軍の将」としては的確でしたが、総大将になれる器ではありませんでした。
猿は機動力が
極めて高いから、要注意だ・・・
こう考えた柴田勝家は、
盛政よっ!
深追いするな!
と盛政を牽制するも、柴田勝家の姉が母で「勝家が叔父」である盛政は、
叔父も老いたな・・・
ここが肝心だ!
ここから
さらに戦果拡大だ!
盛政は我を通し続け、撤退を拒否しました。
そして、山崎の合戦で「大返し」を見せたように、秀吉が岐阜から大返しで戻ってきました。
はっは〜!
秀吉、ここにあり!
さ、猿?!
ま、まさか?!
なぜ、奴が
ここにいるのだ・・・
そして、満を持して、万全の体制で柴田軍に挑んだ秀吉。
秀吉の迅速さと前田利家の寝返りにより、柴田軍は総崩れとなります。
こんな、
こんなはずでは・・・
敗北した柴田勝家は居城北ノ庄城に退却し、妻となっていた信長の妹・市と共に自刃しました。
・・・・・
戦国最強ランクの武将・柴田勝家の戦いにしては、あまりにもあっけない負け方でした。
忍武神・滝川一益の最期:格下の「猿の家臣」となった晩年
大将であった柴田勝家敗死後、滝川一益は秀吉に降参して秀吉方の武将となります。
この私が
猿の家臣か・・・
・・・・・
こんなことになるとは、
考えもしなかったが・・・
そして、最後はひっそりと消えるように1586年に亡くなります。
今回、滝川一益に関して改めて調べるうちに、彼の評価を改めました。
かつて、滝川の統率能力は「それほど高くない」ような描き方をしました。
ところが、今回特に「神流川の戦い」を改めて調べて考えた後、その考えが変わりました。
当時の状況や戦場を鑑みて、18,000の兵を統率し北条軍と対峙しただけでも、当代一流の人物であったでしょう。
あの状況では、上杉謙信や武田信玄でも「どうしようない状況」であり、敗北・撤退するほかなかったと考えます。
信長ならば金ヶ崎のように、神の如き素早さで少人数で「風のように消えて」岐阜まで戻ったかもしれません。
信長亡き織田家の宿老の一人として、18,000もの大軍を率いて、精強な北条軍に向かっていった滝川一益。
滝川一益を戦国第一級の猛将である「忍武神」と評価を改め、滝川一益の章を終わります。
滝川一益には、また改めて、他の武将との比較や織田家再考の際に登場してもらいます。
次回は上記リンクです。