前回は「中世再興を目論んだ「中世の権化」武田信玄〜異常に強力に描かれる武田四天王・最強武将のイメージの真田昌幸と真田幸村・信玄の理念と中世〜」の話でした。
武田信玄が目指した軍略の先:上杉謙信との死闘
甲斐守護で、「甲斐一国」が版図だった武田家。
元々守護の家柄であるため、甲斐の領土は安泰です。
「一国を有する」と言っても、甲斐は山国で、生産力が高くありません。
後の太閤検地の際に、22万石あまりだった甲斐。
信玄が勢力拡張しようとした頃は、20万石程度の石高しかありませんでした。
これは、日本全国で比較しても「低い方」であり、信玄の野望は甲斐の外に向かいます。
同じ山国であり、石高が倍ほどあるであろう信濃に向かった信玄。
太閤検地の際に40万石あまりだった信濃を併呑すれば、一気に三倍ほどの生産力になることが見込まれました。
一気に三倍を
目指す!
そして、村上義清の反撃を受けて、大きな損害を受けたものの、着実に信濃制圧を遂げつつあった信玄。
甲斐から信濃に
勢力を拡張した・・・
村上義清を北信濃から追い出し、義清は長尾景虎を頼ります。
そして、当面、長尾景虎と対峙することになった信玄は、
この後、
どこに向かうか・・・
悩みました。
甲相駿三国同盟
悩んでいた信玄に、願ってもない同盟の話がきました。
武田信玄殿・・・
我が今川・北条家と三者で同盟結ばぬか・・・
国境を接する南の駿河・今川家から、「武田・今川・北条三家の軍事同盟」の提案です。
我が北条は、
乗った!
甲斐国に接する駿河・今川氏、相模・北条氏とは、国境線をめぐって戦いが続いていました。
ここで、「三者がお互い背後を固める」甲相駿三国同盟。
そして、それぞれが、向かう方向が「ちょうど競合しない」という「極めて理想的な同盟」でした。
我が
武田も乗った!
これで、「東と南を固めた」信玄。
西には美濃・斎藤氏がいますが、
まず、
信濃をしっかり固めたい・・・
「まずは信濃」と考え、長尾景虎(上杉謙信)との戦いを優先した武田晴信(信玄)。
そして、長尾景虎(上杉謙信)との死闘を演じることになります。
武田家と織田家:西上作戦と武田家滅亡
その後、織田信長が今川義元を桶狭間で討ったため、甲相駿三国同盟が破綻しました。
破綻のきっかけを作ったのは、武田晴信本人でした。
私は、
大先輩の信玄殿を尊敬しています・・・
信長か・・・
可愛いやつだ・・・
名前 | 生年 |
毛利元就 | 1497年 |
武田信玄 | 1521年 |
上杉謙信 | 1530年 |
織田信長 | 1534年 |
晴信より13歳年下の信長は、信玄に対して極めて丁重な姿勢で接し続けます。
そして、晴信は、織田信長とは長く同盟を結び、友好関係にありました。
晴信なりの「軍略」だったのですが、結果的には大きく裏目に出ました。
武田家から見たら、守護代ですらない「格下扱い」であった織田家。
信長の織田家は、守護代の織田家の
家老の出身か・・・
大したこと
ないのう・・・
ところが、その織田家が想定外の猛烈なスピードで、その版図を広げました。
桶狭間の合戦の頃(1560年)には、織田家にも優れた家臣が大勢いました。
すでに秀吉も家臣でしたが、まだまだ下っ端です。
優れた武将が大勢いた織田家でしたが、家臣団の厚みとしては武田家には遠く及ばないレベルでありました。
織田家臣団は信長の異常なまでの抜擢により、徐々にそして急速に厚みを増してゆき、武田家を凌駕してゆきます。
生産高の低い甲斐において、なんとか生産量を高めようと、治水など内政にも多くの功績を残した晴信。
経済力をつけ、民衆達に健やかに住んでもらわねば、
国がなりたたぬ!
その魔術的な采配能力と異常なまでの騎馬軍団の強さによって、周辺諸国から恐れられ続けた、武田晴信及び武田家。
京へ
向かう!
織田信長と徳川家康を
叩き潰す!
入道後、信玄となった晴信は、死期を悟り最後に京へ乗り込もうと、西上作戦を敢行しました。
そして、三方ヶ原合戦において徳川・織田連合軍を完膚なきまでに粉砕しました。
その瞬間、武田家の輝きは頂点に達し、戦国の世に強烈な光芒を放ちます。
ところが、三方ヶ原合戦直後に信玄が亡くなります(病死、徳川家による射撃の傷など諸説あり)。
・・・・・
信玄亡き後、後継者(正式な当主ではない)勝頼は勇猛な人物で、一時は信玄を超える版図を築き上げます。
ところが、1575年の織田・徳川軍との長篠の合戦における致命的大敗北を受け、数多くの宿将が戦死します。
その後、信じられない勢いで、急速に衰退した武田勝頼率いる武田家。
三方ヶ原合戦10年後に、織田家による滅亡を迎えます。
この衰退こそ、武田晴信の最大の大誤算であったのでしょう。
まさか、我が武田家が
息子・勝頼の代で滅ぶとは・・・
次回は上記リンクです。