前回は「能力オンリー主義」織田家での明智光秀と羽柴秀吉〜尾張譜代衆が中核であり続けた「革新的」織田家・秀吉と光秀の織田家での発言力〜」の話でした。
突然追放された織田家の中核・佐久間信盛と林秀貞
織田家が天下を統一し、「織田政権」樹立が明確に見えてきた1580年。
この年には、信長は「長年の宿敵」本願寺との対決にピリオドを打ちました。
仏敵・信長めに
敗北した・・・
この年に、信長に降伏した大坂(大阪)の本願寺門徒を率いていた本願寺顕如。
やっと本願寺を
叩き潰した・・・
信長の宿敵は武田信玄の印象が強いですが、実際は信長の宿敵は本願寺でした。
後世から見れば、日本の経済の中心を把握し、圧倒的な軍事力と経済力を有していた織田家。
「織田の天下は確定」とも言える事態ですが、まだまだ「織田の敵」がたくさんいました。
1575年の長篠の戦いで「致命的打撃を受けた」武田勝頼でしたが、活発に活動を続けていました。
我が武田は
無敵なのだ!
武田の領土は拡大を続け、上野・越後方面にその版図を広げて、徳川家を圧迫し続けました。
武田の最大版図を
築いたぞ!
1580年当時も「まだ第十五代将軍であり続けている」足利義昭もまた健在でした。
信長めに
京から追放されたが・・・
私はまだ
現将軍なのだ!
この意味では、いかに「圧倒的パワーを有した」織田家でも、まだまだ天下統一の道は先でした。
この、1580年に信長は思い切った判断を下しました。
なんと、突如、宿老であった林秀貞・佐久間信盛を追放したのでした。
「日本の覇王」を目指した信長の視線
後世、比較的軽く扱われている、この佐久間と林の追放劇。
「佐久間も林も無能だったから」という話で、片付けられています。
ところが、佐久間信盛も林秀貞(通勝)も全く無能ではなく、かれらは「ある程度のレベル」の武将でした。
長年に渡って大軍団を率いて本願寺と対峙し、「織田家の要であり続けた」佐久間信盛。
本願寺の連中は
異様に戦意が高い・・・
しかも、我が織田家と
比肩できるほど大量の鉄砲を持っている・・・
ここは、包囲して持久戦に
持ち込むのがベストだろう・・・
もともとは、佐久間家は尾張の名族でした。
そして、桶狭間の合戦では一族の佐久間大学が織田家のために砦を守り、戦死しました。
我が佐久間家は、
織田家のために尽力した・・・
他家と比較して、優れた武将がキラ星の如く大勢いた織田家。
武田・上杉・島津などにも「多数の優れた武将」がいましたが、織田家は別格です。
この点、佐久間も林も織田家では「まあまあ有能」だったかもしれません。
彼らが追放されたのは、織田家による天下統一の目処がつき、
統一後は、
どのような国家体制とするか・・・
信長が「織田家と日本の将来」を考えたことによります。
信長が南蛮(スペイン・ポルトガル)との関係を深く考える過程において、起きた突発的事件です。
織田の天下となり、
私が日本の主人となる・・・
日本の主人は
天皇ではない・・・
そして、
朝廷の連中は役立たず・・・
南蛮などに対しては、「余が日本の王」であることを
伝える必要がある!
「権威はあるが、軍事力・経済力はない」天皇・朝廷の存在。
日本国内は良いとしても、対外的には分かりにくい存在が信長の頭を悩ましていました。
征夷大将軍・関白・太政大臣、
いずれも朝廷の下僕ではないか・・・
余が朝廷の
下僕なんぞになれるか!
信長は、「余が最も偉いのだ」と対外的に主張する方針を固めていました。
今や神格化された存在の信長。
「神格化された」というより、自己の力で「自らを神格化しようとしていた」のが信長でした。
対して、林・佐久間は、信長の父・信秀の代から支えています。
名前 | 生年(一部諸説あり) |
織田信長 | 1534年 |
林秀貞 | 1513年 |
柴田勝家 | 1522年 |
佐久間信盛 | 1528年 |
丹羽長秀 | 1535年 |
羽柴秀吉 | 1537年 |
明智光秀 | 1528年 |
滝川一益 | 1525年 |
林秀貞に至っては、信長の21歳年上です。
信長が20歳の若き青年だった時に、すでに41歳だった林秀貞。
林からみれば、信長は「いつまで経っても子ども」だったでしょう。
信長の若い頃も、よく知っています。
信長様の悪いところは
諌めなければ!
それは、私や林でなければ
出来ぬこと!
「信長を知りすぎているから」こそ、信長に対する姿勢を、あまり変えなかったのでしょう。
余に
諫言だと!
この
馬鹿者めが!
もう良い!
お前は消えよ!
なぜ・・・
なぜでしょうか・・・
信長に上手く仕えた明智光秀と羽柴秀吉
「おべんちゃら」が大好きな秀吉は、信長の機嫌を取ることでは天下一でした。
信長様は
天下様なのだ!
信長様は上様を
超えて、「天下様」と呼ぼう!
なに?
余が「天下様」だと・・・
「天下様」か・・・
悪くない・・・
なるほど、
猿は面白い名前を考えるな・・・
そのあたりは光秀も秀吉も、共に上手に信長と接して「信長を立てる」姿勢を貫いていたのでした。
石ころのような存在であった私を、
引き上げて下さった信長様!
何はともあれ、
信長様に従います!
「無能だったから」ではなく、「あまりに織田家の中での立場が重すぎた」林秀貞と佐久間信盛。
彼らは、「信長を天下人として立てなかった」が故に、追放されたのでした。
余は
日本の王であり、皇帝なのだ!
皇帝を超えた
名称こそ、余にふさわしい!
よいか!
余を敬え!
余を敬えぬものは、
いらん!
対して、信長の性格をよく知っていて、「非常に気にしなければならない」立場の秀吉と光秀。
はは〜っ!
信長様こそ、日本の王!
信長様こそが、
トップに立つ方!
猿もキンカン頭も、
良く分かっている!
うまく信長との関係を、続けていたのでした。
「光と影」のように描かれることが多いのが、「秀吉と光秀」です。
この点では、二人の性格や思考性は、実は「似ている」面も多かったのでしょう。
次回は上記リンクです。