明智光秀と羽柴秀吉〜織田家での立場 2〜|戦国武将

前回は「明智光秀と羽柴秀吉〜織田家での立場 1〜」の話でした。

羽柴秀吉と明智光秀(歴史群像シリーズ 図説・戦国武将118 学研)

「能力オンリーで抜擢した」と言われる織田信長。

織田信長(歴史群像シリーズ 図説・戦国武将118 学研)

それはのちの1580年の林・佐久間追放のことが非常に影響しています。

武田勝頼を完膚なきまで破り、「織田の天下」が明確になった1575年くらいまでの織田家。

革新的な信長といえど、織田家中統制は他家と同様に、古参の武将が重きを成していました。

譜代の家臣である、柴田・丹羽・林・佐久間の四強体制だった織田家。

柴田勝家(歴史群像シリーズ 図説・戦国武将118 学研)
佐久間信盛(Wikipedia)

そして宿老の滝川一益、若手の佐々成政らが続いて、分厚い頑強な人事構成となっていました。

滝川一益(歴史群像シリーズ 図説・戦国武将118 学研)
佐々成政(歴史人2016年12月号 KKベストセラーズ)

織田家中途組と表現されることが多い秀吉。

しかし、なんと言っても20代半ばから織田信長に仕えているので、古参の武将です。

と言っても、もともと織田家とは無関係で「何者かわからぬ」秀吉。

信長に情報力・調略力を買われるにつれて、「仲間が欲しい」と上役を物色します。

そして、気が合いそうで、家柄も良い前田利家に狙いを定めました。

前田利家(歴史群像シリーズ 図説・戦国武将118 学研)

前田利家と仲良くなった秀吉は、織田家譜代の武将を仲間にして、地盤を築きます。

秀吉は織田家代々の武将では無いものの、かなり若い時から織田家一途で働いている「異色の優れた、代々では無い新参者」とでした。

対して、光秀は「極めて優れた中途組」です。

光秀・秀吉は、古来からの宿老・最上層部とは、ちょっと違うレベル(少し低い)での「ライバル」だったのでしょう。

丹羽長秀(歴史群像シリーズ 図説・戦国武将118 学研)

現代の様々な歴史書では、佐久間信盛と林秀貞は非常に軽く扱われています。

場合によっては、ほとんど言及すらされていないこともあります。

佐久間・林の追放に関しては、「彼らが無能であったから」「信長が信行側についた過去を許せなかったから」という話が多いです。

長年、織田家の外交を支えた林秀貞。

そして、本願寺顕如率いる大坂を、大軍団を率いて囲み続けた佐久間信盛。

本願寺顕如(Wikipedia)

実際には、この二人が秀吉・光秀が本格的に台頭してきた、1575年頃までの織田家の中核を構成していました。

そして、織田家中において、光秀・秀吉より、はるかに発言権があったのでしょう。

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