「能力オンリー主義」織田家での明智光秀と羽柴秀吉〜尾張譜代衆が中核であり続けた「革新的」織田家・秀吉と光秀の織田家での発言力〜|光秀と秀吉2・人物像・能力

前回は「織田家における明智光秀と羽柴秀吉の立場〜羽柴秀吉誕生・柴田勝家と丹羽長秀から一字ずつ・織田家ならではの超抜擢人事・織田四天王〜」の話でした。

羽柴秀吉と明智光秀(歴史群像シリーズ 図説・戦国武将118 学研)
目次

「能力オンリー主義」織田家での明智光秀と羽柴秀吉

戦国大名 織田信長(歴史群像シリーズ 図説・戦国武将118 学研)

「能力オンリー主義」で、有能な家臣を次々と抜擢したと言われる織田信長。

能力こそ
全てだ!

出自はいらんぞ!
とにかく、優れた能力!

そして、余に忠誠を誓う
心を持って居れば良いのだ!

この「信長率いる織田家の異常なまでの能力主義」は、他の大名家とは完全に一線を画していました。

武田・上杉・毛利・北条・島津などの大大名においては、「出自」は大事でした。

まして、織田家のように「出自不明人間」が司令官クラスになることは絶対になかったのです。

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作家 司馬 遼太郎(司馬遼太郎の戦国 朝日新聞出版)

信長にとって、
家臣は人間というより、道具であった・・・

司馬遼太郎によって「家臣は道具と見做していた」像が決定的となった織田信長。

それはのちの1580年の林・佐久間追放のことが非常に影響しています。

織田家重臣 佐久間信盛(Wikipedia)

長年に渡り、織田家のために必死に働いてきて、能力も相応にあった佐久間信盛。

信長様のために、
尽くすのだ!

尾張の有力国人であった佐久間家は、実際に織田信長のためにひたすら働いてきました。

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桶狭間の戦い(Wikipedia 歌川豊宣画)

桶狭間の戦いにおいて、前線の丸根砦を守って討死した佐久間盛重(大学)もまた佐久間信盛の一族です。

若い頃の信長にとっては、佐久間家の協力は不可欠なほど大事な存在でした。

そして、織田家が巨大になるにつれ、自然と方面軍が形成されてゆきました。

最初の方面軍は柴田勝家率いる北陸方面軍です。

その頃、大坂の本願寺と死闘を繰り広げていた織田家は近畿中心の軍団を佐久間信盛がまとめました。

私が信長様に代わって、
本願寺を下す!

そして、信盛の頑張りもあって、大坂の石山本願寺を退去・滅亡に追い込みましたが、

もういい・・・
信盛よ、もう消えよ!

はっ?
なぜですか?

お前は、能力がない!
本願寺に時間がかかりすぎだ!

織田家で長年の間、宿老・重臣の座にあった佐久間信盛は一気に放逐されました。

同時期に、長年信長を支え続けてた林秀貞(通勝)もまた、放逐されてしまいました。

他の家では明白な謀反がない限り、佐久間・林級の武将がいきなり放逐されることは、ありえません。

織田家ならではの「苛烈さ」であり、「能力オンリー主義」と言われる所以です。

尾張譜代衆が中核であり続けた「革新的」織田家

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戦国大名 武田 勝頼(歴史群像シリーズ 図説・戦国武将118 学研)

実像としては、織田家も他の家と同じような機構を途中までは持っていました。

武田勝頼を完膚なきまで破り、「織田の天下」が明確になった1575年くらいまでの織田家。

革新的な信長といえど、織田家中統制は他家と同様に、この頃までは古参の武将が重きを成していました。

織田家重臣 柴田勝家(歴史群像シリーズ 図説・戦国武将118 学研)

譜代の家臣である、柴田・丹羽・林・佐久間の四強体制だった織田家。

いずれも、尾張の譜代出身とも言える存在でした。

俺は、一度信長様に弓引いたが、
それ以降は、忠誠を誓っている!

尾張から美濃へ、そして近畿一帯に一気に勢力圏を広げた織田家。

そのプロセスにおいて、各地の有力な武将が家臣に加わり続けました。

それでも、当然のことながら「織田家発祥の地・尾張」は別格です。

尾張以来の譜代の有力武将たちが、しっかりと織田家の中核をなしていました。

織田家重臣 丹羽長秀(歴史群像シリーズ 図説・戦国武将118 学研)

その「譜代武将」の中でも、特に有能だったのが柴田・丹羽・林・佐久間でした。

滝川一益(歴史群像シリーズ 図説・戦国武将118 学研)

そして宿老の滝川一益・若手の佐々成政らが続いて、分厚い頑強な人事構成となっていました。

織田家飛躍の理由は、信長個人の抜群の軍事力・政治力やカリスマ性によるところが大きいです。

実際は、この多数の武将たちが、

信長様に
続くのだ!

信長をしっかりと支えていたのでした。

秀吉と光秀の織田家での発言力

前田利家(歴史群像シリーズ 図説・戦国武将118 学研)

織田家中途組と表現されることが多い秀吉。

ところが、なんと言っても20代半ばから織田信長に仕えているので、古参の武将です。

私は、若い頃から
信長様一筋!

と言っても、もともと織田家とは無関係で「何者かわからぬ」秀吉。

信長に情報力・調略力を買われるにつれて、

仲間が
欲しいな・・・

と上役を物色します。

そして、気が合いそうな人物を探します。

私の出自を蔑まない、
気が合う人物が良い・・・

家柄も良い前田利家に狙いを定めました。

前田殿、
仲良くしようぞ!

ああ、木下殿、
こちらこそ・・・

前田利家と仲良くなった秀吉は、織田家譜代の武将を仲間にして、地盤を築きます。

そして、秀吉と若い頃から夫婦揃って仲良しだった前田利家。

この関係によって、のちに加賀100万石の開祖となります。

若い頃の利家は、かなりの暴れん坊でしたが、まさか

私が「加賀100万石の開祖」に
なるの?

のちの立場を当時知ることがあれば、驚愕するでしょう。

名前生年(一部諸説あり)
織田信長1534年
林秀貞1513年
柴田勝家1522年
佐久間信盛1528年
丹羽長秀1535年
羽柴秀吉1537年
明智光秀1528年
滝川一益1525年
織田信長と織田家有力家臣の生年

秀吉は織田家代々の武将ではなく、出自も不明、というより「出自がない」に等しい存在でした。

かなり若い時から織田家一途で働いている「異色の優れた、代々では無い新参者」とでした。

対して、光秀は「極めて優れた中途組」です。

「ずっとライバルだった」ように描かれることが多い光秀と秀吉。

二人は、古来からの宿老・最上層部とは、ちょっと違うレベル(少し低い)での「ライバル」だったのでしょう。

現代の様々な歴史書では、佐久間信盛と林秀貞は非常に軽く扱われています。

場合によっては、ほとんど言及すらされていないこともあります。

佐久間・林の追放に関しては、

林も佐久間も
無能!

かつて、信行側についた
過去は許せん!

という話が多いです。

実際は長年、織田家の外交を支えた林秀貞。

信長よりも21歳も年上であり、宿老の中でも随一の年配者だった林秀貞の存在は大きかったのです。

法主 本願寺顕如(Wikipedia)

そして、本願寺顕如率いる大坂を、大軍団を率いて囲み続けた佐久間信盛。

この二人が秀吉・光秀が本格的に台頭してきた1575年頃までの織田家の中核を構成していました。

そして、織田家中において光秀・秀吉より、はるかに発言権があったのでしょう。

私もガンガン出世してきたが、
林様には頭が上がらん・・・

所詮、途中組だが、
将軍家との関係は、私が最優先の立場だ・・・

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1580年の織田家勢力図(別冊歴史人 「戦国武将の全国勢力変遷地図」KKベストセラーズ)

加速度をつけるように領土が広がっていった織田家において、多数の優れた武将が各地を転戦しました。

後世から見れば、秀吉・光秀に注目が集まるのは当然のことです。

実際には、1580年頃までの織田家の実態は林・佐久間たち「尾張譜代衆」が中核をなしていた織田家。

この「尾張譜代衆」の中核が存在しなければ、織田家の異常なまでの飛躍もなかったかもしれません。

この中、秀吉と光秀は「ある意味似ている」面もあり、共に懸命に働き、織田家の中で登り詰めてゆきました。

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