織田家オールスターの長篠の合戦に不在の明智光秀〜武田オールスターとの対峙・四天王の一人が不在の織田と武田・光秀の大いなる飛躍・足利家との関係〜|明智光秀5・人物像・能力・鉄砲

前回は「日本の中枢である京・山城・近畿を抑える明智光秀〜近畿管領の前触れ・鉄砲をかき集めた信長・「鉄砲の明智」の長篠の戦いでの役割〜」の話でした。

明智光秀(歴史群像シリーズ 図説・戦国武将118 学研)
目次

織田家オールスターの長篠の合戦:明智光秀の不在

織田四天王:左上から時計回りに柴田勝家、明智光秀、羽柴秀吉、滝川一益(Wikipedia)

織田家オールスターの長篠の合戦に、なぜか不在の明智光秀。

長篠の合戦が勃発した1575年の頃は、織田家の方面軍で成立していたのは、柴田勝家の北陸方面軍くらいでしょう。

柴田勝家の北陸侵攻(歴史群像シリーズ51 戦国合戦大全下巻)

もう少し後に、中国地方から毛利を攻める役割を担う羽柴秀吉ですが、まだ羽柴方面軍は未完成です。

そして、滝川一益の関東方面軍は成立の気配すらない時期です。

織田四天王の「光秀以外全員」及び佐久間信盛・丹羽長秀たち「織田家オールスター」の出陣した長篠。

長篠合戦図(図説豊臣秀吉 戎光祥出版 柴裕之編著)

信長は光秀に、目前に迫っていた丹波攻略の戦略・準備等を指示していたのでしょう。

織田 信長(歴史群像シリーズ 図説・戦国武将118 学研)
織田信長

軍事も政治もできるのは、私以外には、
猿(秀吉)かキンカン頭(光秀)!

織田信長

だが、京を任せるには、
朝廷との関係が重要だ!

織田信長

その点、朝廷から嫌われている
猿ではダメだ!

そして、信長は考えに考えた挙句に、

織田信長

余が不在の京を任せられるのは、
光秀のみ!

「光秀しかいない」という結論に至りました。

武田オールスターとの対峙:四天王の一人が不在の織田と武田

武田四天王

精強を誇っていた武田家ですが、この7年後にあっさり滅亡します。

長篠合戦時の武田家は、多くの名将がバリバリの現役。

なかでも、超強力な騎馬隊を率いる「赤備えの男」がいます。

山県昌景(歴史群像シリーズ 図説・戦国武将118 学研)

「天下統一」を推進するためには、「早めに武田家に可能な限りの打撃」を与える必要があります。

光秀自身、そして明智軍が鉄砲に優れていたら、「明智軍を長篠に出陣させる」最善でしょう。

結果的に明智軍がいなくても、織田家は大勝します。

どうもここが不可解です。

「光秀といえば鉄砲」というのは、事実とは少し異なった誇張であったのか。

あるいは「鉄砲の明智軍」を長篠に出陣させるよりも、

織田信長

光秀と明智軍は
「対武田」よりも優先すべきことがある・・・

光秀と明智軍を西に配置する、他に優先すべき理由があったのか。

長篠の戦い(図説 豊臣秀吉 柴裕之編著 戎光祥出版)

両方の要素があったと考えます。

この時、「明智軍の鉄砲隊」は光秀と共に在京していたのか。

あるいは、「明智軍の鉄砲隊」は信長が直卒して、一部を長篠に連れて行ったのか。

上杉家への押さえとして海津城に詰め続けた高坂昌信(春日虎綱)以外の、武田四天王が全員出陣した長篠。

この意味では、「織田・武田共に四天王の一人が不在」という共通点があります。

まさに、「武田家にとっての上杉」が「織田家にとっての京」だったとも考えられます。

光秀の大いなる飛躍:足利家との関係

第十五代室町幕府将軍 足利義昭(Wikipedia)

長篠の戦いのわずか2年前の1573年。

織田信長が足利義昭を京都から追放し、足利幕府を解体しました。

この時点で「足利幕府は事実上、消滅した」のですが、足利義昭は毛利家に保護されます。

そして、「事実上、消滅した」とはいえ、まだ現将軍である足利義昭。

毛利家の領土である鞆で、「打倒信長」の暗躍を続ける足利義昭。

足利義昭

打倒、
信長!

足利義昭

何がなんでも、
信長は倒したい!

といっても、実態はよく分からず、足利義昭が「吠えていただけ」とも言えます。

足利義昭

私を推戴してくれたと思ったら、
「利用するだけ」だったとは!

足利義昭

とにかく、
信長を撃滅したい!

「鞆幕府」の権威や権限に関しては、疑問符がついています。

1575年の織田家と諸大名の関係(歴史人2020年2月号 KKベストセラーズ)

織田家が突出していたとは言え、武田・上杉・北条・毛利という大勢力が、まだまだ大勢います。

そして、顕如率いる一向一揆もまだガンガン戦っている状況。

本願寺 顕如(Wikipedia)

それらの勢力に、グルッと包囲されている織田家。

長篠の合戦当時は、「まだどうなるか分からない」状況です。

「前政権が倒されて、明確な政権がない」微妙な時期でした。

武田 勝頼(歴史群像シリーズ 図説・戦国武将118 学研)

後世、愚将のように描かれている武田家当主・武田勝頼。

実はかなりの勇将で、武田家の版図は武田勝頼の代で最大となります。

実際、徳川家康は武田勝頼に押しまくられ、かなりの領土を失っていました。

民衆A

ひょっとすると、
武田が織田・徳川を倒すかも・・・

「武田が勝つかも」という希望的観測もあったでしょう。

その中、光秀は長篠へ向かうのではなく、京で西を守り、丹波侵攻の準備に専念していたのです。

そして、それが出来たのは、優れた武将がキラ星の如くいた織田家においてもなお、「明智光秀のみ」だったのでした。

1567年に織田信長に「支え始めた」と言われる明智光秀。

名前生年(一部諸説あり)
織田信長1534年
柴田勝家1522年
滝川一益1525年
明智光秀1528年
丹羽長秀1535年
羽柴秀吉1537年
織田信長と織田家方面司令官の生年

1570年頃までは「織田・足利両属」だったと見られるも、長篠の合戦まで「仕官後8年しか経過していない」光秀。

そして、「比較的年長」とはいえ、柴田勝家・滝川一益の方が年齢が上です。

さらに、柴田は超譜代の重心であり、滝川も「長年、信長に仕えている」存在でした。

この頃、明智光秀の「大いなる飛躍」が始まったのでした。

次回は上記リンクです。

新歴史紀行

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