前回は「「長州流・猛烈竜巻」の中心にいた高杉晋作〜列強にケンカを「売った」熱風・異常に夷狄を毛嫌いした孝明天皇・徳川幕府の「「外国船打払令」〜」の話でした。
田中光顕「維新風雲回顧録」語る様々な志士たち:宮内大臣と書記官長

1839年に生まれ、討幕・明治維新の直前の1867年、29歳(数え年)で亡くなった高杉晋作。
高杉に関しては様々な書籍が出版され、西郷隆盛などと同様に、「高杉のイメージ」があります。
今回は、田中光顕が口述した「維新風雲回顧録」を元に、高杉晋作の真の姿を追いかけてみます。

1843年に土佐に生まれた田中光顕は、やや地味なキャラですが、大いなる足跡を残しました。
| 名前 | 生年 | 所属 |
| 大村 益次郎 | 1825 | 長州 |
| 西郷 隆盛 | 1827 | 薩摩 |
| 武市 瑞山 | 1829 | 土佐 |
| 大久保 利通 | 1830 | 薩摩 |
| 木戸 孝允 | 1833 | 長州 |
| 坂本 龍馬 | 1835 | 土佐 |
| 中岡 慎太郎 | 1838 | 土佐 |
| 山縣 有朋 | 1838 | 長州 |
| 高杉 晋作 | 1839 | 長州 |
| 久坂 玄瑞 | 1840 | 長州 |
| 伊藤 博文 | 1841 | 長州 |
| 田中 光顕 | 1843 | 土佐 |
伊藤博文たちと同年代であり、「薩長閥」に阻まれながらも、明治新政府で大活躍した田中光顕。
田中光顕は、陸軍出身であり、宮内大臣、初代内閣書記官長(内閣官房長官)などを務め上げました。
田中光顕幕末の志士たちの話を
ぜひ残しておきたい。



私が話すから、それを記録して、
出版しよう。
こうして、田中光顕口述による「維新風雲回顧録」は、1928年に出版されました。
当時の大日本帝国は、軍国主義へ突き進む頃で、満洲事変の3年前のことでした。
「倒幕」目指し薩長同盟画策した中岡慎太郎:「倒幕」と「討幕」


1828年に出版された、と言うことは、田中光顕は1824年前後から語り始めた、と考えます。
1824年は、田中光顕が80歳の頃でした。
「80歳」は、かなり高齢であった当時、田中光顕は「維新の志士たちの実像」を記録に残しました。
土佐出身の田中光顕は、坂本龍馬、中岡慎太郎、板垣退助、後藤象二郎に対して語りそうです。
ここで、田中光顕は、個人的に高杉晋作と極めて親しい間にありました。
「維新風雲回顧録」では、高杉晋作に関して「天才高杉晋作」と一章を設けています。
既に、風雲の幕末が始まっていた頃、若き田中光顕は京都にいました。



那須盛馬と二人して、供養とに乗り込むと
まず寺町通大雲院にいる大橋慎三を叩いた。



私にとっては、大阪で別れて以来の
会見である。



大橋から、逐一、京都の
様子を聴いた。



詳しい話を聞くと、なんでも
私が十津川から寄せた一絶を大橋が中岡に見せた。



それが、中岡の心情を動かし、
私を呼び迎えることになったのだ、と言うていた。



で、何をおいても、中岡に会おうと思って、
寓居を叩いた。





今日の場合、どうしても、薩州と長州とが
私怨を忘れて、提携せぬことには、



倒幕運動は、
難しい。



自分は坂本(龍馬)と共に、そのため、
折角両藩の有志に入説している



足下にも、一骨折って貰おうと
思って、十津川から招いたわけである。
田中の回想が具体的に何年かは不明ですが、おそらく、既に脱藩していたであろう中岡慎太郎。
田中光顕にとっては、5年上の大先輩でした。
ここで、中岡慎太郎は、「薩長同盟を猛烈推進する」ことを明確に田中に伝えました。
そして、「薩長提携・同盟」のために、多数の人物に「骨折り」を依頼していた中岡。
さらに重要な点は、「討幕」ではなく「倒幕」と中岡が表現していたことです。
日本語で「とうばく」と同一発音であり、「討幕」と「倒幕」は混同しやすいです。
その一方で、「討幕」と「倒幕」は全く異なります。
中岡慎太郎は、後に、幕末維新直前の頃に、



「戦の一字」
あるのみ!
このように強く「討幕」を主張した説が有力です。
後述による田中光顕「維新風雲回顧録」は、当然ながら田中は「とうばく」と口で説明しました。



少なくとも、この頃の
中岡さんは「倒幕」派だった・・・
後述記録の原稿をチェックの上、出版したのは間違いない田中光顕。
当時、既に「元宮内大臣」「元警視総監」「元内閣書記官長」の超重要人物だった田中光顕。
その田中光顕が語る「幕末維新の真実」に、嘘があってはならない状況でした。
この点から、幕末維新の風雲の末期の少し前、



倒幕するには、
薩長同盟が必須だ!
中岡慎太郎は「倒幕」向けて大いなる活躍をしていました。

