前回は「疾風の男・高杉晋作が見据えた軍の未来〜下関戦争での大敗北・徳川幕府に「攘夷の圧力」を掛け続けた孝明天皇・徳川幕府の「攘夷決行」の建前を本気で実行した長州〜」の話でした。

異常に夷狄を毛嫌いした孝明天皇:徳川幕府の「「外国船打払令」

1863年、徳川幕府は「外国船打払令」を発令しました。

時の将軍は、第十四代将軍 徳川家茂でした。
外国に対しては、国家元首であり「大君」を名乗っていた将軍・ 徳川家茂。

この3年前の1860年には、桜田門外の変が勃発し、幕府の威光は急落していました。
とは言っても、当時の「正式な日本政府」は徳川幕府であり、政治・外交のトップでした。
徳川家茂外国船を
攻撃するのは、流石に・・・
それほどリーダーシップはなく、歴代の将軍の中でも「大人しめ」であった家茂。
そもそも家茂は、攘夷にもそれほど深い関心はなかったと思われます。





私は、夷狄が
大嫌いなのだ!



とにかく、夷狄などを
我が神国日本に入れるな!
この頃、鎖国の影響もあり「外国との接点」が際立って少なかった日本。
1.長崎・出島:徳川幕府の公式窓口(オランダ・中国)
2.対馬・宗氏:徳川幕府が公認・間接的関与(朝鮮)
3.蝦夷・松前氏:徳川幕府が半公認・間接的関与(蝦夷及びアイヌ)
4.薩摩・島津氏:徳川幕府は非公認・事実上黙認(琉球・中国・東南アジア)
日本の対外公式窓口は、上の4箇所ありました。


そもそも、京・山城中心の日本の国家像において、徳川時代は江戸の立場が飛躍的に上がりました。
江戸時代において、4つの対外窓口は、全て京から遠い場所でした。
そのため、京付近には外国人は、ほとんどいなかった時代でした。
その影響もあってか、とにかく異常なまでに外国人を嫌ったのが孝明天皇でした。



夷狄が、我が京付近に
来ることを考えるだけでも・・・



朕は震えるほど、
嫌な気持ちになる!



とにかく、攘夷を
結構するのだ!



はっ・・・
承知致しました・・・



文久三年(1863年)
5月10日に攘夷決行致します・・・
そして、気が乗らないながら「攘夷の約束」を「させられた」のが家茂でした。
「長州流・猛烈竜巻」の中心にいた高杉晋作:列強にケンカ「売った」熱風


当時、世界の覇権国であった大英帝国からは、オールコックが公使として日本に滞在していました。



「外国船打払令」
だと?



Tokugawaは
一体何を考えている?
外国人側の視点から見れば、異常以外の何者でもない「外国船打払令」。



本気か・・・
本気でやるのか・・・





よし!
あそこの夷狄の船を撃沈しろ!
そして、本気で外国船を「打ち払った」のが長州でした。



我が国の
軍艦ではなく・・・



商船を攻撃するとは、
絶対に許さん!・・・



Choshuは
徹底的に潰す!



USもFranceも
Netherlandも一緒にやりましょう!
怒り狂ったオールコックは、米・仏・蘭と組んで、四カ国艦隊を下関に向かわせました。



エゲレスが
メリケンなどと組んだか!



よしっ!
この長州の底力、見せてくれる!
| 名前 | 生年 | 松下村塾 |
| 吉田 松陰 | 1830 | ◯(指導者=先生) |
| 木戸 孝允(桂小五郎) | 1833 | – |
| 前原 一誠 | 1834 | ◯ |
| 入江 九一 | 1837 | ◯ |
| 山縣 狂介(有朋) | 1838 | △ |
| 高杉 晋作 | 1839 | ◯ |
| 久坂 玄瑞 | 1840 | ◯ |
| 伊藤 博文(俊輔) | 1841 | ◯ |
| 吉田 稔麿 | 1841 | ◯ |
若い頃から優秀であり、ハンサムだった久坂玄瑞は、早くから「長州の星」でした。
久坂玄瑞に関する話を、上記リンクでご紹介しています。
1864年、攘夷決行直後に四カ国艦隊が大編隊を組んで下関にやってきた時、久坂はまだ24歳(数え年)でした。
ところが、大砲において圧倒的に劣った長州軍。
長州の軍艦は全て沈没・大破、砲台も全滅、長州兵は蹴散らされました。



まさか、
こんな大敗となるとは・・・
重大なショックを受けた久坂玄瑞。



これほど
夷狄の艦隊が強力とは・・・
そして、同様な大ショックを受けた高杉は、



これは攘夷を
唱えるばかりでは、いかんな・・・
冷静な姿勢で「攘夷の現実性」を再考せざるを得ませんでした。


そして、下関は、英米仏蘭軍に占領されてしまいました。
「長州藩の完敗」で終わった1863年6月の下関戦争。
そして、この2ヶ月後には、薩英戦争が起こりました。


薩英戦争は、薩摩藩による英国人殺傷という生麦事件が原因でした。





生麦のこと・・・
あれはエゲレスが悪いのだ!



我が大名行列を
横切る奴は、全員斬る!



これは「当たり前」の
ことだろう・・・
後世の視点から考えて、どう考えても「薩摩が悪い」生麦事件は、島津久光にとっては「当然のこと」でした。
その意味では、薩摩藩にとっては、ある意味で薩英戦争は「一方的に売られたケンカ」でした。
それに対して、長州の攘夷は、どこから見ても「一方的に売ったケンカ」でした。
この「売った」か「売られた」かが、まさに如実に表していました。
当時の長州藩と薩摩藩の「外国に対するスタンス」の違いを。
そして、さらに慎重な薩摩は、長州よりも全体的に「慎重を期す」姿勢でした。
その一方で、このお祭りのように攘夷で盛り上がり続けた長州藩。
長州藩の「猛烈な竜巻」のような勢いは、幕末維新を大きく動かしました。
そして、この「長州流・猛烈竜巻」の中心にいた一人が、高杉でした。


