「長州流・猛烈竜巻」の中心にいた高杉晋作〜列強にケンカを「売った」熱風・異常に夷狄を毛嫌いした孝明天皇・徳川幕府の「「外国船打払令」〜|高杉晋作9・能力・人物像・エピソード

前回は「疾風の男・高杉晋作が見据えた軍の未来〜下関戦争での大敗北・徳川幕府に「攘夷の圧力」を掛け続けた孝明天皇・徳川幕府の「攘夷決行」の建前を本気で実行した長州〜」の話でした。

長州藩士 高杉晋作(国立国会図書館)
目次

異常に夷狄を毛嫌いした孝明天皇:徳川幕府の「「外国船打払令」

下関戦争:米国ワイオミング号の馬関砲台への攻撃(Wilipedia)

1863年、徳川幕府は「外国船打払令」を発令しました。

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第十四代将軍 徳川家茂(Wikipedia)

時の将軍は、第十四代将軍 徳川家茂でした。

外国に対しては、国家元首であり「大君」を名乗っていた将軍・ 徳川家茂。

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桜田門外の変(Wikipedia)

この3年前の1860年には、桜田門外の変が勃発し、幕府の威光は急落していました。

とは言っても、当時の「正式な日本政府」は徳川幕府であり、政治・外交のトップでした。

徳川家茂

外国船を
攻撃するのは、流石に・・・

それほどリーダーシップはなく、歴代の将軍の中でも「大人しめ」であった家茂。

そもそも家茂は、攘夷にもそれほど深い関心はなかったと思われます。

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孝明天皇(Wikipedia)
孝明天皇

私は、夷狄が
大嫌いなのだ!

孝明天皇

とにかく、夷狄などを
我が神国日本に入れるな!

この頃、鎖国の影響もあり「外国との接点」が際立って少なかった日本。

徳川幕府の鎖国政策の窓口

1.長崎・出島:徳川幕府の公式窓口(オランダ・中国)

2.対馬・宗氏:徳川幕府が公認・間接的関与(朝鮮)

3.蝦夷・松前氏:徳川幕府が半公認・間接的関与(蝦夷及びアイヌ)

4.薩摩・島津氏:徳川幕府は非公認・事実上黙認(琉球・中国・東南アジア)

日本の対外公式窓口は、上の4箇所ありました。

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京・山城中心の日本列島(新歴史紀行)

そもそも、京・山城中心の日本の国家像において、徳川時代は江戸の立場が飛躍的に上がりました。

江戸時代において、4つの対外窓口は、全て京から遠い場所でした。

そのため、京付近には外国人は、ほとんどいなかった時代でした。

その影響もあってか、とにかく異常なまでに外国人を嫌ったのが孝明天皇でした。

孝明天皇

夷狄が、我が京付近に
来ることを考えるだけでも・・・

孝明天皇

朕は震えるほど、
嫌な気持ちになる!

孝明天皇

とにかく、攘夷を
結構するのだ!

徳川家茂

はっ・・・
承知致しました・・・

徳川家茂

文久三年(1863年)
5月10日に攘夷決行致します・・・

そして、気が乗らないながら「攘夷の約束」を「させられた」のが家茂でした。

「長州流・猛烈竜巻」の中心にいた高杉晋作:列強にケンカ「売った」熱風

英国公使 Sir Rutherford Alcock(Wikipedia)

当時、世界の覇権国であった大英帝国からは、オールコックが公使として日本に滞在していました。

Alcock

「外国船打払令」
だと?

Alcock

Tokugawaは
一体何を考えている?

外国人側の視点から見れば、異常以外の何者でもない「外国船打払令」。

Alcock

本気か・・・
本気でやるのか・・・

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幕末の長州の志士たち:左上から時計回りに久坂玄瑞、高杉晋作、伊藤俊輔(博文)、前原一誠(Wikipedia)
久坂玄瑞

よし!
あそこの夷狄の船を撃沈しろ!

そして、本気で外国船を「打ち払った」のが長州でした。

Alcock

我が国の
軍艦ではなく・・・

Alcock

商船を攻撃するとは、
絶対に許さん!・・・

Alcock

Choshuは
徹底的に潰す!

Alcock

USもFranceも
Netherlandも一緒にやりましょう!

怒り狂ったオールコックは、米・仏・蘭と組んで、四カ国艦隊を下関に向かわせました。

久坂玄瑞

エゲレスが
メリケンなどと組んだか!

久坂玄瑞

よしっ!
この長州の底力、見せてくれる!

名前生年松下村塾
吉田 松陰1830◯(指導者=先生)
木戸 孝允(桂小五郎)1833
前原 一誠1834
入江 九一1837
山縣 狂介(有朋)1838
高杉 晋作1839
久坂 玄瑞1840
伊藤 博文(俊輔)1841
吉田 稔麿1841
長州の志士たちの年齢

若い頃から優秀であり、ハンサムだった久坂玄瑞は、早くから「長州の星」でした。

久坂玄瑞に関する話を、上記リンクでご紹介しています。

1864年、攘夷決行直後に四カ国艦隊が大編隊を組んで下関にやってきた時、久坂はまだ24歳(数え年)でした。

ところが、大砲において圧倒的に劣った長州軍。

長州の軍艦は全て沈没・大破、砲台も全滅、長州兵は蹴散らされました。

久坂玄瑞

まさか、
こんな大敗となるとは・・・

重大なショックを受けた久坂玄瑞。

高杉晋作

これほど
夷狄の艦隊が強力とは・・・

そして、同様な大ショックを受けた高杉は、

高杉晋作

これは攘夷を
唱えるばかりでは、いかんな・・・

冷静な姿勢で「攘夷の現実性」を再考せざるを得ませんでした。

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下関戦争:連合国に占拠された砲台(Wikipedia)

そして、下関は、英米仏蘭軍に占領されてしまいました。

「長州藩の完敗」で終わった1863年6月の下関戦争。

そして、この2ヶ月後には、薩英戦争が起こりました。

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薩英戦争 歴史道vol.6(朝日新聞出版)

薩英戦争は、薩摩藩による英国人殺傷という生麦事件が原因でした。

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薩摩国父 島津久光(国立国会図書館)
島津久光

生麦のこと・・・
あれはエゲレスが悪いのだ!

島津久光

我が大名行列を
横切る奴は、全員斬る!

島津久光

これは「当たり前」の
ことだろう・・・

後世の視点から考えて、どう考えても「薩摩が悪い」生麦事件は、島津久光にとっては「当然のこと」でした。

その意味では、薩摩藩にとっては、ある意味で薩英戦争は「一方的に売られたケンカ」でした。

それに対して、長州の攘夷は、どこから見ても「一方的に売ったケンカ」でした。

この「売った」か「売られた」かが、まさに如実に表していました。

当時の長州藩と薩摩藩の「外国に対するスタンス」の違いを。

そして、さらに慎重な薩摩は、長州よりも全体的に「慎重を期す」姿勢でした。

その一方で、このお祭りのように攘夷で盛り上がり続けた長州藩。

長州藩の「猛烈な竜巻」のような勢いは、幕末維新を大きく動かしました。

そして、この「長州流・猛烈竜巻」の中心にいた一人が、高杉でした。

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