前回は「徳川家康が東軍を指揮した床几場〜「天下取り」の戦いへ・「超歴戦の家康」のみが発した凄み・江戸から駿遠三経由して関ヶ原へ〜」の話でした。
「五大老筆頭」家康vs「元・五奉行筆頭」三成:「戦国ど真ん中」徳川家康

関ヶ原古戦場を訪問し、関ヶ原の東軍総大将だった徳川家康の陣跡に向かいました。
| 名前 | 生年 |
| 織田信長 | 1534年 |
| 羽柴(豊臣)秀吉 | 1537年 |
| 徳川家康 | 1543年 |
| 石田三成 | 1560年 |
| 福島正則 | 1561年 |
| 加藤清正 | 1562年 |
| 細川忠興 | 1563年 |
そして、西軍の事実上の総大将だったのは、若き石田三成でした。
家康にとってみれば、「17歳下」の若造でした。

とにかく、「戦国のど真ん中」を生き抜いた徳川家康。
関ヶ原の合戦当時、徳川家康と「並ぶ者」は皆無の存在でした。
この時41歳(数え年)だった三成でしたが、同様に家康が41歳だったのは1583年でした。
時は本能寺の変直後であり、一度は「織田の天下」が見えたのに再度「動乱の時代」となった頃です。
本能寺の変に関する話を、上記リンクでご紹介しています。
同じ41歳で比較してみると、「家康の41歳」と「三成の41歳」では、軍事的経験に巨大な差があります。
徳川家康あの三成が、
この家康に挑むのか・・・



面白い!
野戦で正面切って戦ってくれるわ!
野戦にかけては、「戦国指折り」の強者であった徳川家康。
後世の視点から考えれば、「なぜ、三成は家康相手の無謀な戦いを挑んだのか?」は、よく話題になります。
「反逆者の上杉景勝討伐」という「謎の大義名分」を掲げて東北に向かった家康。
なんと言っても、当時の家康は「五大老の筆頭」であり、豊臣政権の中でも圧倒的存在でした。
それに対して、「五奉行の筆頭」だったものの、関ヶ原の時は「蟄居させられていた」三成。
どう考えても、「分が悪い」のが三成でした。
「家康の超大戦略」が感じられる家康陣跡:徳川家より上だった毛利家


そして、徳川家康の陣跡であり、家康の床几跡とも言われる場所は、確かに今でも迫力が残っています。
事実上、「豊臣家内部抗争」だった関ヶ原の戦い。


関ヶ原の頃は、まだまだ「豊臣の世」であり、中でも五大老は圧倒的存在でした。
| 名前 | 生年 | 石高 |
| 徳川家康 | 1543 | 255万石 |
| 毛利輝元 | 1553 | 120万石 |
| 上杉景勝 | 1556 | 120万石 |
| 前田利長 | 1562 | 81万石 |
| 宇喜多秀家 | 1572 | 57万石 |
そして、五大老の中で、不自然なほど存在感が薄いのが前田利長でした。


「関ヶ原」の前年の1599年に、父・前田利家が亡くなるまで影に隠れ続けた利長。
「関ヶ原」直前に家康の挑発を受けて、早々に降参してしまったこともまた、大きな失点でした。
とにかく、圧倒的な存在感を誇っていた徳川家康でしたが、「上杉+毛利」も侮れない存在でした。
上杉景勝、毛利輝元は、共にパッとしたところがない存在です。
その一方で、家康とは10歳違いで、とにかく「戦国の只中を生き続けた」毛利輝元。
西国で120万石を領有し、いわば、徳川家よりも大先輩格だったのが毛利家でした。
当時は、「徳川家より家格が上」と言っても良い立場だった毛利家。



この毛利輝元が
西軍総大将だ!
そして、西軍総大将として「毛利輝元を担いだ」三成の戦略は、確かに正しい選択でした。
ここで、もし「前田家が西軍寄り」だったら、徳川家はかなり厳しい状況でした。
それでも、「毛利+上杉+宇喜多=297万石」であり、徳川家を上回る石高だった西軍。
前田家は「表立っては東軍側でなく、日和見」でした。
この意味では、十分に「勝算があった」西軍。
ところが、やはり石高や大名の実力は「合計」とはなりませんでした。
それぞれの大名家が「バラバラ」では仕方なく、西軍は全く「一枚岩」にはなりませんでした。
さらに、家康の謀略によって、毛利輝元は大坂城にいることになり、西軍は弱体化しました。
そして、極め付けが「小早川秀秋の寝返り」でした。
こう考えると、何から何まで「超大戦略を打った」のが家康でした。



・・・・・
こうして、三成は家康の「超大戦略に敗れた」のでした。
関ヶ原古戦場の家康陣跡からは、「家康の超大戦略」が感じられます。


