「超短期大決戦」戦略練り続けた家康〜世代交代の大合戦「関ヶ原」・「文禄・慶長」から「関ヶ原」へ・白村江以来の「鬼門」朝鮮半島〜|「天下分け目」の関ヶ原4

前回は「「家康の超大戦略」が感じられる家康陣跡〜徳川家より上だった毛利家・「五大老筆頭」家康vs「元・五奉行筆頭」三成・「戦国ど真ん中」徳川家康〜」の話でした。

目次

「文禄・慶長」から「関ヶ原」へ:白村江以来の「鬼門」朝鮮半島

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関ヶ原古戦場(新歴史紀行)

「戦国最大の合戦」であった関ヶ原の戦い。

大坂の陣を、「戦国期の最後」と考えるならば、「戦国最大の合戦」は、大坂の陣となります。

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天下人・関白 豊臣秀吉(Wikipedia)
豊臣秀吉

この豊臣秀吉が
天下を取ったのだ!

豊臣秀吉

私は「豊臣」という
新たな姓をつくり、関白として君臨する!

これは歴史の考え方にもよりますが、戦国時代は秀吉によって「一度は終了」しました。

ところが、秀吉の政権はあまりに脆弱でありました。

豊臣秀吉

よしっ!
こうなったら、朝鮮へ攻め込む!

挙げ句の果てに、「戦国を終了させた」はずなのに、わざわざ新たな大戦争を引き起こした秀吉。

そして、その大戦争の矛先は海外であり、ある意味で「日本国民の念願」でした。

672年に、白村江の戦いで大打撃を受けて以来、日本にとって「鬼門」であり続けた朝鮮半島。

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京・山城中心の日本列島(新歴史紀行)

現代の日本人にとって、「朝鮮半島」は、「日本に近い」くらいの認識です。

その一方で、戦国当時は、米国が存在しない時代であり、欧州も「遠い存在」でした。

その視点で改めて地図を見てみると、確かに「異様に日本に突き出した形状」である朝鮮半島。

見方によっては、確かに「日本」という国家に対して、ズバッと刺さるような形状です。

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文禄の役(Wikipedia)

そして、大船団を整えて、一気に海を渡った「豊臣軍」ならぬ「日本軍」。

緒戦は猛烈な勢いで勝利を続けたものの、朝鮮軍に加えて明軍をも相手にしました。

文禄・慶長の役と関ヶ原の戦い

・文禄の役:1592年〜1593年

・慶長の役:1597年〜1598年

・関ヶ原の合戦:1600年

こうして、改めて、「文禄・慶長」から「関ヶ原」の流れを見ると、強い連続性を感じます。

「超短期大決戦」戦略練り続けた家康:世代交代の大合戦「関ヶ原」

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左上から時計回りに、徳川家康、石田三成、毛利輝元、加藤清正(歴史群像シリーズ55 石田三成 学研、Wikipedia)

「外征」であったため、一般庶民にとっては、「戦国」より遥かにマシだった「文禄・慶長」。

その一方で、戦国時代の合戦とは、「一桁違う」動員と規模でした。

徳川家康

秀吉め・・・
天下統一したと思ったら、朝鮮か・・・

徳川家康

気持ちは分からんではないが、
いくらなんでも、これは異常だ・・・

当時の家康は、こう考えて、「秀吉の真意」を図りかねたでしょう。

名前生年石高
徳川家康1543255万石
毛利輝元1553120万石
上杉景勝1556120万石
前田利長156281万石
宇喜多秀家157257万石
豊臣五大老(関ヶ原合戦時)

そして、圧倒的存在であった徳川家康は、明らかに「文禄・慶長」とは一線を画しました。

文禄の役開始の1592年の2年前に、「大規模な国替」となった徳川家。

長年勢力を張り、先祖代々の地であった三河・遠江周辺から、一気に関東に移動させられました。

徳川家康

私は、新たに頂戴した
関東をしっかり治めねばなりませんので・・・

徳川家康

とても、とても
外征する余裕はありません。

豊臣秀吉

そうか・・・
徳川殿は、内部を固めてくだされ・・・

徳川家康

こんな無謀なことを
やっていては・・・

徳川家康

豊臣の時代は、
長くは続くまい・・・

徳川家康

そもそも、
後継者が不在ではないか・・・

文禄の役が始まった1592年には、後の豊臣秀頼は生まれていませんでした。

豊臣秀頼が生まれたのは、「文禄」翌年の1593年です。

形式的には「勝利」に終わり、さらに後継者が生まれた秀吉は、一気に勇躍したでしょう。

豊臣秀吉

これで、豊臣の
世は続くのだ!

ここで、「慶長」をやらずに、「文禄」で止めておけば、豊臣の世はもう少し続いたでしょう。

徳川家康

ようやく後継者が
生まれた、か・・・

名前生年
織田信長1534年
羽柴(豊臣)秀吉1537年
徳川家康1543年
石田三成1560年
福島正則1561年
加藤清正1562年
細川忠興1563年
羽柴秀吉、石田三成と周囲の武将の生年
徳川家康

右府様(信長)も私も、
子どもは多く、順調に生まれた・・・

徳川家康

秀吉は、確かに
我が国有史以来の幸運な人物だが・・・

徳川家康

後継者にだけは、
恵まれなかった・・・

徳川家康

この点では、少し
同情してやりたくなるほど、だ・・・

秀頼が誕生した時、秀吉は57歳(数え年、以下同)、家康は51歳でした。

すでに「豊臣の次の徳川の時代」に向けて、画策を開始していたであろう家康。

そして、秀吉が1598年に没し、そのわずか2年後に「関ヶ原」となりました。

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関ヶ原古戦場(新歴史紀行)

現在の関ヶ原古戦場は、岐阜から近江の山々に囲まれた平地にあり、当時と状況は大体同じです。

そして、この地に東軍・西軍合わせて、16万名ほどの将兵が集まりました。

まさに双方にとって「乾坤一擲」の戦いであり、若き石田三成が家康に向かいました。

この時、石田三成は41歳、徳川家康は58歳でした。

「戦国時代最後の大合戦」は、それまでの「大合戦」とは何もかもが異なっていました。

「若者が年長者を倒す」ことも多く見受けられた戦国。

下剋上の時代だった戦国でしたが、「大合戦」は比較的同年代が多いです。

この中、「戦国時代最後の大合戦」は、総大将が「およそ20歳」の年齢差がある、異例の状況でした。

ある意味で「世代交代の大合戦」だったのが、「関ヶ原」でした。

徳川家康

本来ならば、
この大合戦は1年以上はかかる・・・

徳川家康

だが、ワシの戦略で
一気に短くするのだ・・・

おそらく、家康は、秀吉存命時から「超短期決戦」を考えていた、と筆者は考えます。

「超短期大決戦」戦略を練りながら、その布石をうち続けた家康。

そして、「関ヶ原」は、誰もが考えもしなかった「1日で終了」となりました。

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