「御殿の奥深く」で切腹した信長〜中国九州平定軍中核明智軍の装備・即座に「ここで腹を切ろう」決断した信忠・叛逆の条件と信忠強襲〜|本能寺の変12・信長公記19

前回は「町中の宿舎から「本能寺に向かった」信長小姓〜京都を包囲?明智軍・本能寺に「火を放った」のは明智軍か?・曖昧な日本語と真相不明〜」の話でした。

目次

「御殿の奥深く」で切腹した信長:中国九州平定軍中核・明智軍の装備

新歴史紀行
本能寺の変(歴史道vol.13 朝日新聞出版)

絶対絶望の中、弓と槍で戦い続けた信長を、信長公記は丁寧に記述しています。

この点は、太田牛一が「どのようにして知ったのか」は、重要です。

ほとんど全員が討ち死にした、本能寺の「信長及び側近たち」。

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信長公記(太田牛一著、中川太古訳、新歴史紀行)
信長公記

それまで傍に女房衆が
付き添っていたが・・・

織田信長

女たちはもうよい、
急いで脱出せよ!

信長公記

と言って、
退去させた。

信長周囲の女房衆は、信長の命令で退去しました。

おそらく、「本能寺から無事退去した女房衆たちの証言」と考えます。

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本能寺の変(歴史道vol.13 朝日新聞出版)
信長公記

すでに御殿は火をかけられ、
近くまで燃えてきた。

信長公記

信長は、敵に最期の姿を見せては
ならぬと思ったのか・・・

信長公記

御殿の奥深くへ入り、
内側から納戸の戸を閉めて、無念にも切腹した。

ここで、信長公記では、「信長の最期」に関して、比較的あっさりとした記述です。

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織田信長と明智光秀(新歴史紀行)
織田信長

是非もなし・・・

明智光秀の性格・能力、明智軍の兵力・軍事力を誰よりも深く知っていた信長。

そもそも、明智軍出陣を命じたのは信長自身でした。

信長公記によると、「本能寺」直前に、羽柴秀吉から「毛利本隊出陣」を聞いた信長は、

織田信長

今、安芸勢と間近く接した
ことは天の与えた好機である。

織田信長

自ら出陣して、
中国の歴々を討ち果たし・・・

織田信長

九州まで一気に
平定してしまおう!

このように「中国から九州まで一気に平定」を目論んだ事実を明瞭に記述しています。

当時、圧倒的な織田家でしたが、さすがに「中国から九州まで一気」は大軍勢が必要です。

「信長自ら出馬」であり、直前の武田軍の時は合計で7万人ほどだった織田軍。

この「中国・九州平定軍」もまた、7万人〜9万人ほどを見込んだはずです。

更に、九州地方は鉄砲隊が多いことは信長は当然知っていたはずだった信長。

すると、織田家中核の鉄砲隊の、砲弾・硝煙などの確保も更に入念だったはずです。

この中、「これから出陣する中核中の中核」であった明智軍。

信長は明智軍に対して、更なる「鉄砲隊の装備」などを命じていた、と考えます。

こう考えると、「従来よりも強化した明智軍」に対して、信長が「早々に断念した」のも納得できます。

即座に「ここで腹を切ろう」決断した信忠:叛逆の条件と信忠強襲

新歴史紀行
織田家後継者 織田信忠(歴史群像シリーズ 図説・戦国武将118 学研)
信長公記

織田信忠は、この変事を聞き、
信長に合流しようと思い・・・

信長公記

妙覚寺を出たところ、
村井貞勝父子が駆けつけてきて、信忠に言った。

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京都所司代 村井貞勝(Wikipedia)
村井貞勝

本能寺は、もはや敗れ、
御殿も焼け落ちました。

村井貞勝

敵は必ずこちらへも
攻めてくるでしょう。

村井貞勝

二条の新御所は構えが堅固で、
立て籠もるのに良いでしょう。

織田家の勃興期から、能吏として京都所司代などを務めた村井貞勝。

華々しいイメージはありませんが、織田家の内政に欠かせない人物でした。

信長公記

これを聞いて、
直ちに二条の新御所へ入った。

信長公記

信忠は、

織田信忠

ここは戦場になりますので、東宮様・若宮様は
内裏へお移りになさった方が良いでしょう。

信長公記

ここで、評議は
まちまちであった。

信忠家臣S

退去
なさいませ。

信長公記

と進言した者もいた。
しかし、信忠は、

織田信忠

これほどの謀反だから、敵は万一にも
我々を逃がしはしまい。

織田信忠

雑兵の手にかかって死ぬのは、
後々までの不名誉、無念である。

織田信忠

ここで腹を
切ろう。

信長公記

と言った。
神妙な覚悟は、痛ましい事であった。

この「異様にあっさり諦めた信忠」も有名なエピソードですが、信長公記は淡々と記録しています。

まずは、住まいであった妙覚寺を出て、村井貞勝の信玄通り、二条御所に籠城した信忠。

本能寺の変が、他の謀反と際立って異なる点は、「信長だけでなく、後継者・信忠も消した」点です。

この点は、明智光秀にとって、異様なほど「条件が揃っていた」状況でした。

新歴史紀行
岐阜城:山道からの光景(新歴史紀行)

この頃、織田家後継者であった信忠は、信長から美濃・尾張をもらい、岐阜城にいました。

普通に信忠が「岐阜城にいた」ならば、「信忠強襲」は不可能でした。

新歴史紀行
戦国大名 徳川家康(Wikipedia)

徳川家康接待の余波で、「たまたま京にいた」信忠。

そもそもは、信長の「家康に対する丁重すぎる姿勢」から、京にいたのでした。

このように考えると、戦国史だけでなく、日本史、いや世界史上も極めて稀な「本能寺」。

絶対的権力を握っていた本人のみならず、「純然たる後継者」まであっという間に消えてしまう歴史です。

この点は、信長の「心のスキ」であったのは事実です。

その一方で、信長が「家康及び徳川家臣団を極めて丁重に扱った」余波でした。

思いがけずも「明智の叛逆」となった「本能寺」。

本来ならば、天下統一に向けて「信長の周囲への丁重な姿勢」が続いた、と考えます。

この「信長の異様な丁重さ」こそが、本能寺の変の鍵となりました。

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