前回は「「御殿の奥深く」で切腹した信長〜中国九州平定軍中核明智軍の装備・即座に「ここで腹を切ろう」決断した信忠・叛逆の条件と信忠強襲〜」の話でした。
「完全に消えた」信長の遺体の謎:御殿放火は信長側+明智軍双方?

信長公記信長は、敵に最期の姿を見せては
ならぬと思ったのか・・・



御殿の奥深くへ入り、
内側から納戸の戸を閉めて、無念にも切腹した。
本能寺の変で、織田信長は御殿奥深くで切腹に追い込まれました。
多数の謎がある本能寺の変。
最大の謎の一つが、「なぜ、信長の遺体が完全に焼却されたか?」です。
この「信長の遺体」に関しては諸説あり、「荼毘に付した僧侶が信長の骨を持って脱出した」説あります。
そして、「信長の墓」と呼ばれる墓が、意外なところにある説もあります。
その一方で、筆者は、「信長の骨等を僧侶が持って脱出」は不可能と考えます。
皇族・女性に対しては、ある程度の配慮があった、と考えます。


織田家重臣の中でも、知性派武将として描かれることが多い明智光秀。





また、友人たちの間にあっては、
彼(光秀)は人を欺くために七十二の方法を深く体得し・・・



かつ学習したと吹聴していたが、ついには、
このような術策と表面だけの繕いにより・・・
光秀に対して、淡々と描く信長公記に対して、フロイス「日本史」では、「謀略の超達人」の光秀。
フロイスが描く「謀略の超達人」の光秀に関する話を、上記リンクでご紹介しています。
いずれにしても、極めて緻密な戦略家・謀略家だった光秀。
その光秀が、大勢の軍勢をもってして、信長の骨を持った僧侶の脱出を見逃すはずがないからです。
その一方で、「信長の首」を欲したであろう、明智光秀。
信長の御殿の火災による焼却は、明智軍の放った火、信長側が放った火、の両方の可能性があります。
光秀が「信長の首」を求めていたならば、「御殿に火」は厳禁であったはずです。



・・・・・
淡々と鉄砲隊で撃ちかけて、大軍で乗り込めば、確実に信長を消せたはずでした。
「信長側が放った」可能性も高いですが、「信長の遺体を消し去る火災」はかなり大火災でした。
それほどの大火災を、短期間に確実に起こすのは、かなり用意周到に準備が必要だったはずです。
すると、この「信長側が放った」火災説も、無理がありそうです。
実態としては、「とにかく信長を確実に消す」ことを優先した明智軍による放火もあったと考えます。
そして、信長側もまた「確実に信長を消す」ことを求めた結果、確実に「信長は消えた」のでした。
信忠に従って最後まで斬り死した小姓・武将の実名:太田牛一の情報力





これほどの謀反だから、敵は万一にも
我々を逃がしはしまい。



雑兵の手にかかって死ぬのは、
後々までの不名誉、無念である。



ここで腹を
切ろう。



と言った。
神妙な覚悟は、痛ましい事であった。
父・信長と同時に、明智軍の強襲を受けてしまった、織田家後継者・織田信忠。
信長一人ならまだしも、「覇王・信長+後継者・信忠」が、異様なほど家臣が少ない状況でした。


確かに、当時の織田家の領土の中で、ほぼ中心に当たる位置にあった京・山城。
そして、本来ならば「信長と信忠を護衛する」立場であったのが明智光秀でした。
その「護衛すべき光秀」が謀反を起こした点こそが、本能寺の変の根幹的事態でした。



そうこうしているうちに、
間もなく明智の軍勢が攻め寄せてきた。



猪子高就・福富秀勝・野々村正成・篠川兵庫頭・
下石頼重・毛利良勝・赤座永兼・団忠直・・・



坂井越中守・桜木伝七・逆川甚五郎・服部小藤太・小沢六郎三郎・
服部六兵衛・水野九蔵・・・



山口半四郎・坂伝三郎・斎藤新五・
河野善四郎・寺田善右衛門、その他、



それぞれ次々と打って出て、
切り殺し斬り殺されつつ、我劣らじと戦った。
ここでも、信忠に従って、最後の最後まで戦った小姓・武将たちの名前を緻密に記録した太田牛一。
太田牛一が、どのようにして、ここまで信長・信忠の小姓・武将たちの名前を把握したか、は不明です。
これほど詳細な人名は、織田家中枢の情報をもっていなければ出来ない、と考えます。
とにかく「圧倒的な情報力」をもっていた太田牛一であり、緻密に信長を描いたのが信長公記でした。
そして、これらの詳細な人名などこそ、信長公記が高い信頼性を持つことを如実に示しています。


