前回は「「実像不明」西郷隆盛への憶測と憧憬〜存在しない西郷「公式記録」・兵力などの謎が多い佐賀戦争・士族反乱に戦慄した明治政府と情報秘匿〜」の話でした。
「明治維新の最後を飾った」西南戦争:謎の西郷隆盛の真意

明治初期の巨大事件・大内戦であった西南戦争。
現代も残る、西南戦争の銃弾跡などを訪問した話を、上記リンクでご紹介しています。

1868年の明治維新までは、薩摩・長州などの国が「別の国家」のような国家体制だった江戸時代。
現代、私たち日本人が米国人やフランス人と違うように、薩摩人と長州人は「違う」存在でした。

この「連合国家」のような国家体制を一気に「王政復古」して、「朝廷式に戻した」のが明治維新でした。
明治維新という「大革命で国家体制を変革して大きく進めた」のに「復古した」点が特徴でした。

この中、どうしても「内輪揉め」は避けられない状況であり、1874年には佐賀戦争が勃発。
| 勢力 | 兵力 | 戦死者 |
| 明治政府軍 | 6,000〜8,000名? | 209名 |
| 憂国党・征韓党 | 2,500〜6,000名? | 173名 |
兵力などの詳細が極めて不明である佐賀戦争は、1ヶ月ほどで明治政府が勝利して終わりました。
佐賀に対して、圧倒的存在であった明治政府。

佐賀藩も強力な存在でしたが、実態としては薩摩・長州よりも総合的武力は弱かったのでした。
圧倒した政府軍でしたが、実は死者は明治政府軍の方が多かったのでした。
| 勢力 | 西郷軍 | 政府軍 |
| 明治政府軍 | 約90,000名 | 約6,400名 |
| 西郷軍 | 約30,000名 | 約6,800名 |
そして、佐賀戦争の3年後に勃発した西南戦争でもまた、大勢の人物が亡くなりました。
佐賀戦争では、政府軍・憂国党合わせて400名ほどだった死者。
西南戦争では、政府軍・西郷軍合わせて13,000名ほどが亡くなり、佐賀戦争の30倍以上でした。
「明治維新の最後を飾った」と表現しても良い西南戦争。
ある意味では、明治維新という巨大革命完成には、「避けられない道」だったかもしれません。
当時3,000万名ほどだった人口に対して、13,000名以上殺し合った大内戦でした。
現在の人口の1/4だった当時、13,000名以上戦死者を出した「巨大内戦」だったのが西南戦争でした。
西郷隆盛・・・・・
西南戦争の頃、西郷隆盛は果たして何を考え、何を目論んでいたのでしょうか。
西郷派・大久保派分裂前の誠忠組トップ大山綱良:川村純義の調停


岩倉公実記は、西南戦争の初期の頃を精緻に描写しています。





いかん・・・
これは何とかせねば・・・



私が、何とか
西郷さんと大久保さんの間に入ろう!





川村大輔、私が
艦長の高尾にお乗りください!
「西郷軍決起」の報に対し、薩摩の大久保派は、さすがに大慌てとなりました。
| 名前 | 生年 | 西郷派・大久保派 |
| 大山 綱良 | 1825 | 西郷 |
| 西郷 隆盛 | 1828 | 西郷(ボス) |
| 大久保 利通 | 1830 | 大久保(ボス) |
| 川路 利良 | 1834 | 大久保 |
| 村田 新八 | 1836 | 西郷 |
| 川村 純義 | 1836 | 大久保 |
| 篠原 国幹 | 1837 | 西郷 |
| 桐野 利秋 | 1839 | 西郷 |
| 大山 巌 | 1842 | 大久保 |
| 伊東 祐亨 | 1843 | 大久保 |
| 西郷 従道 | 1843 | 西郷・大久保 |
| 別府 晋介 | 1847 | 大久保 |
当時の「薩摩党」は、大きく西郷派と大久保派に別れていました。
・長州・松下村塾:高杉晋作、久坂玄瑞、前原一誠、伊藤博文など
・薩摩・精忠組:西郷隆盛、大久保利通、有馬新七、大山綱良など
・肥前・義祭同盟:江藤新平、大隈重信、副島種臣、大木喬任、島義勇など
幕末の三大グループの一つであった精忠組は、明治期に入り大山綱良が最も年長者でした。
そして、年齢的には、大山綱良に西郷隆盛と大久保利通が続きました。


元・島津藩の事実上の藩主であり、左大臣であった島津久光にずっと従ってきた大山綱良。
精忠組を抑え、島津家とも良好な関係であった鹿児島県令・大山綱良は強力な存在でした。



なんとか、西郷さぁと
話がしたい!
様々な思惑がある中、川村純義は「なんとか沈静化したい」と希望しました。
諸外国において、軍隊といえば元々は陸軍中心でした。
海軍が登場したのは、欧米が先であり、スペインの無敵艦隊や大英帝国の艦隊が有名です。


明治維新達成後、欧米列強から海軍による圧迫を受ていた、当時の日本は勝海舟を海軍卿としました。
太政官政府において、海軍卿が設立された当初は、「適当な人物がいない」ため欠員となりました。
その後、「勝海舟しかいない」となり、初代海軍卿に勝海舟が就任しました。
その一方で、どう考えても、「徳川を潰した敵」であった明治新政府・太政官の人物たち。



やっぱり、
海軍卿は辞任しますよ・・・
明治六年の政変後に海軍卿に就任した勝海舟は、一年半ほどで辞任してしまいました。
その結果、西南戦争時点では、海軍大輔であった川村純義が「大日本帝国海軍トップ」でした。
つまり、「国家の海軍トップ」であった川村純義でしたが、薩摩に到着して、



さて、まずは上陸して
吉之助さぁと話す!
とにかく「西郷と話そう」と思いましたが、鹿児島県警・野村忍介が来て、



閣下は如何なる公事を
帯びて来るや?
このように、川村純義に問いかけました。
もちろん、野村忍介は西郷党・私学校党であり、「川村が来た理由」は聞かなくてもわかることでした。
「国家の海軍トップ」川村純義は、野村如き下っ端の質問に答える必要は、本来ありませんが、



予は県令に会接せんと
欲す。



足下、直ちに県令に
通告すべし。


本来、「当事者の西郷隆盛と会いたい」川村でしたが、「まずは大山県令に会いたい」と言いました。
西郷派・大久保派に割れてしまったものの、元は「誠忠組」であり、「一派閥」であった薩摩軍団。
その薩摩軍団の最年長者であり、示現流の達人であり、島津久光と良好であった大山県令。



純義が、
おいどんに会いたい、と・・・
川村は、まずは大山と会談することを強く望んだのでした。


