前回は「「究極の水城」+「海城」だった宇和島城〜伊達分家の誇り・嫡男秀宗の「秀の字」を頑なに守り通した伊達政宗・秀吉への思い〜|宇和島城8・伊予」の話でした。
「四方のうち二方が海に面した」宇和島城:古風な伝統的日本建築

現存十二天守の一つである、大変貴重な宇和島城。

江戸期の宇和島城は、上の絵図によると「四方のうち、二方が海に面した」海城でした。

かつて、琵琶湖に面していたと思われる安土城もまた、水城の一つと考えられます。
安土城に関する話を、上記リンクでご紹介しています。
現在とは、宇和島周辺の地形はだいぶ異なる、1703年の宇和島城付近の地形。
おそらく、江戸期にも埋立はあったと思われますが、宇和島城は「天下一の海城」でした。
1649年再建の天守閣は、やや小規模ですが、海に囲まれていたら、さぞ美しかったでしょう。

宇和島城天守閣内には、宇和島城の大きな木の模型があります。
かなり精巧な模型であり、ここまで大きく、精巧だと「建築に近い模型」とも言えます。
頑強な通し柱(各階を貫く柱)があり、頑強ながら、美しい屋根を作っています。

天守閣内部は、いかにも古風であり、伝統的な日本建築の空間が広がります。
石造と比較すると「朽ちやすい」印象が強い木造建築ですが、丁寧にメンテナンスすれば保ちます。
窓から入る自然の光が、木の床を優しく照らし出しています。
肖像画が一切ない宇和島初代藩主・伊達秀宗:おとなしめの秀宗の甲冑

天守閣内部には、甲冑の展示などが豊富で、伊達家の兜が展示されています。
城の内部に、このような兜や鉄砲などの展示がされていることが多いですが、ゆとりある展示です。

ここでは、伊達秀宗・伊達政宗・豊臣秀吉の甲冑が並べて展示されています。
上の展示説明パネルには、「秀宗」の名前の由来を説明しています。
ここで不思議な点は、「秀宗の肖像画が残されていない」点です。
筆者が色々と調べてみましたが、確かに秀宗の肖像画は見当たりません。
これは、いかにも「異様な事態」です。
「天下の伊達」の分家であり、堂々の10万石の宇和島藩の初代藩主である伊達秀宗。
昔は写真がありませんでしたが、古来から肖像画は多数描かれ、多くが残されています。

940年に、平将門の乱(承平天慶の乱)を引き起こした平将門の肖像画もあります。
将門が生存した時期は、江戸初期から700年ほど前の時代です。

歴史の教科書に掲載されることが多い源頼朝の肖像画も、有名です。
これらの肖像画を作成する時期も様々で、後になって「往時を偲んで作成する」こともあります。
そして、江戸期の藩主レベルになると肖像画が残っていることが多いです。
それにも関わらず、「初代藩主」であるにも関わらず、肖像画が一切ない伊達秀宗。
ここには、伊達秀宗なりの「屈折した思い」がみて取れます。
「天下の伊達政宗の嫡男」でありながら、仙台伊達藩の後継者になれなかった秀宗。
秀吉の「秀の字」を拝領した名前であるために、徳川家から白眼視された秀宗。
このような「屈折した思い」から、「肖像画を作らせなかったと、筆者は考えます。

すぐ近くにある、父・伊達政宗の甲冑は「いかにも伊達」です。
そして、派手すぎる意匠の豊臣秀吉の甲冑。
それらの間に挟まれた、伊達秀宗の甲冑は、秀吉・政宗の甲冑に似ている面もあります。
その一方で、どう見ても、「おとなしめ」である伊達秀宗の甲冑。
伊達秀宗この伊達秀宗は、
天下の伊達政宗の嫡男ぞ!



そして、秀宗の秀の字は
豊臣秀吉の秀なのだ!



だが、私は豊臣から徳川の時代の
狭間で、苦しんだのだ・・・
甲冑の意匠にも、伊達秀宗の思いが込められていると考えます。
伊達秀宗の「豊臣から徳川の時代の狭間」の苦しみ、が。


