前回は「伊藤博文「大久保暗殺は西郷の為の復讐」〜混沌とした明治初期の時代・日本人の頭脳身体の根幹まで浸透した封建体制・伊藤が悩んだ「政体と国体」〜」の話でした。
「部下の言うとおり判子」しなかった大久保:無能官吏一掃と薩長閥

伊藤博文大久保公の紀尾井坂での
刺客の難に逢われたのは・・・



つまり、西郷の為の
復讐であった。



十年の戦争の時、
西郷に与した徒が、



彼の忠臣を
殺した!



という恨みから来たもので、固より大久保公は、
あんなことになろうとは思っておられなかった。
西南戦争勃発時、大久保は率先して、西郷一派撲滅に動きました。
確かに、大久保利通の暗殺は「西南戦争の続き」と考えるのが妥当であり、伊藤は明確に語っています。



遭難の日は明治十一年の
五月十四日であった。



予は十年の戦争が終わってから後
初めて開かれる地方官会議の議長となって・・・



これからの地方制度も改良してゆこうとした時で、
確か県会なども、あの時であったと思う。



地方官を招集して
会議を開いた。



その時、
大久保公は、



地方官を淘汰しなければ
ならぬ!



という考えを
持たれた。



この時、自分は松田道之などが、主に働いて、
どうしても地方官を淘汰しなければならぬ。



老朽はいかぬ、無能はいかぬ、と言い、
また小県を廃して大きな県に合体させようという議も起こった。



大久保公の
言われるには、



自分の方でも、地方官の人物を調べてみようが、
君の方でもやって欲しい。



君は実際、会議の職掌に当たっているし、
人間の賢愚適否も分かるだろうから・・・



その意見を
持ち出してくれ。



という訳で、地方官会議が済んでから
地方官の更迭について評議が起こった。
どうやら、明治初期の地方官・官吏には、どうしようもない人物も多数いたようです。
おそらく、主として薩長閥の人物であり、大久保と伊藤は「無能な管理更迭」に動いていました。



その時、大久保公は、
自ら重く執っていて・・・



盲目判を押すようなことは
容易にされなかった。
現代、「盲目判(めくらばん)」は差別語となりますが、原文を尊重し、そのまま記載しました。
とにかく、忙しすぎる立場であった大久保でしたが、「盲目判は押さなかった」大久保。
自分がきちんと理解して「部下の言うとおり判子」は一切しなかった大久保。
確かに、大久保は、どこまでも政治家でした。
佐々木高行「大久保も侍補兼務」要請:若すぎる明治天皇を養育する侍補


1878年頃、維新の四傑のうち、西郷は戦死、木戸は病で亡くなった時期でした。
岩倉は確かに政治力がありましたが、岩倉の場合は「胆力による政治力」と言う色彩が強いです。
それに対して、「胆力+見識による政治力」が圧倒的であった大久保利通。
大久保自身が望んだこともあり、当時の明治政府は「大久保首相による大久保内閣」のようでした。



そこで、十三日に
公は予の榎坂の屋敷にやって来られて、



地方官の仕事も、
まだ悉く決定しておらぬから・・・



君も忙しかろうけれども、
明日の評議にはぜひ出てくれ。



どうしても君が
出てくれなければ困る。



と、わざわざ
その事を言いにこられた。予は、



よろしい。
出ましょう。



と言って別れたが、
翌朝、佐々木高行と高崎西風の二人がやってきた。



当時、君側にある
侍補のことについて、





侍補ばかりでは、
君徳の培養に不足であるから・・・



どうか大久保公にも宮内省の方を兼ねて、
君側の方に尽力するように解いてくれんか。



と言う話をしているうちに、
大久保公から手紙が来た。
「侍補」は、後に廃止された「まだ若い明治天皇を補佐し、養育して、育てる」立場でした。


| 名前 | 生年 | 所属 |
| 大村 益次郎 | 1825 | 長州 |
| 西郷 隆盛 | 1827 | 薩摩 |
| 大久保 利通 | 1830 | 薩摩 |
| 佐々木 高行 | 1830 | 土佐 |
| 木戸 孝允 | 1833 | 長州 |
| 江藤 新平 | 1834 | 佐賀(肥前) |
| 坂本 龍馬 | 1835 | 土佐 |
| 乾(板垣)退助 | 1837 | 土佐 |
| 後藤 象二郎 | 1838 | 土佐 |
| 中岡 慎太郎 | 1838 | 土佐 |
| 高杉 晋作 | 1839 | 長州 |
| 久坂 玄瑞 | 1840 | 長州 |
| 明治天皇 睦仁 | 1852 | – |
西南戦争が勃発した1877年の時点で、まだ25歳であった明治天皇。
まだまだ若い、と言うよりも「若すぎる」君主であり、安定感が不足していたのが現実でした。
そこで、西南戦争が終了する頃に、「侍補」が設置された経緯がありました。
「事実上の首相」であった大久保には、宮中のことまで手が回る立場ではありませんでした。
土佐出身であり、文官らしい風貌の佐々木高行は、山内容堂の側近として幕末維新を駆け抜けました。
「25歳の若き明治天皇の補佐役」ならば、経験豊富な佐々木高行はうってつけの人物でした。



やはりなんと言っても、
大久保卿がいなければ・・・
その佐々木から見ても、「忙しすぎる大久保に来て欲しかった」宮内省。
まさに、当時は大久保が「明治政府全ての中心」だった事実を物語っています。
ところが、「明治政府全ての中心」大久保は、間もなく暗殺されてしまうことになります。

