前回は「「部下の言うとおり判子」しなかった大久保〜無能官吏一掃と薩長閥・佐々木高行「大久保も侍補兼務」要請・若すぎる明治天皇を養育する侍補〜」の話でした。
大久保利通の絶筆「伊藤博文への手紙」:極めて丁重な大久保の言葉

佐々木高行侍補ばかりでは、
君徳の培養に不足であるから・・・



どうか大久保公にも宮内省の方を兼ねて、
君側の方に尽力するように解いてくれんか。
当時、大久保利通は「内務卿=事実上の総理大臣」として、極めて忙しい状況でした。
そのことをよく理解しているはずの佐々木高行からも、「宮内省も兼ねる」ことを要請される大久保。



という話をしているうちに、
大久保公から手紙が来た。
とにかく、「大久保なしでは動きが遅い、動かない」のが、当時の明治政府の状況でした。





今から自分はすぐ参朝するから、
君もすぐ来てくれ。



と言う
文意である。



なんでも殺される
わずか数分前に書かれたものだ。
間もなく、大久保利通が暗殺される時点で、大久保から手紙を受け取った伊藤博文。



それから予は、二人に断って
出勤した。
どうやら、伊藤は佐々木高行と高崎正風の「大久保宮内省入り」を却下したようです。



赤坂の方から
参内する。



公は紀尾井坂から
行かれた。



内閣に
出ると、



凶変を知っているか。
今、大久保公が殺された!



ということで
あった。



実に意外で
残念千万のことであった。



この時、公が予に送られた手紙は
思いも寄らぬ公の絶筆となった。



これが、
その手紙である、



昨日御約束申し上げ置き候通り、
大熊にも八時より参内の約束いたし置き候付・・・



御多忙と存候得共、暫時御参朝下さるよう
お願い奉り、この段至急 早々。



五月十四日、 利通
伊藤殿。
| 立場 | 名前 | 生年 | 出身 |
| 正使 | 岩倉具視 | 1825 | 公家 |
| 副使 | 大久保利通 | 1830 | 薩摩 |
| 木戸孝允 | 1833 | 長州 | |
| 山口尚芳 | 1839 | 肥前 | |
| 伊藤博文 | 1841 | 長州 |
この手紙を読むと、大久保利通が後輩である伊藤博文に対して、実に丁寧な言葉遣いです。
これは、大久保の性格もあると思います。
最大実力者・大久保利通は、様々な人に丁寧に、丁重に対応していたのが分かります。
勅命で決した「島津久光vs大久保利通」:上聞に達させた仲介役・伊藤





大阪会議以後、島津公と
大久保公は不破になった。


「島津公」とは、元薩摩島津藩最大の実力者であり、「事実上の藩主」だった島津久光です。
幕末維新に、強力な影響力を与えた島津久光。
島津久光の動向次第で、幕末維新は大きく変わるほどの影響力を持っていました。
そして、元々は「島津久光の子飼いの側近」だった大久保利通。





一蔵(大久保)・・・
お前は、元は私の家臣だよな・・・
大久保に対しては、生涯「私の家臣」という姿勢だった島津久光。
「家臣だった大久保利通」が、自分を遥かに超えて「日本国の事実上の内閣総理大臣」となりました。
もともと複雑な性格であった島津久光は、面白くなく、度々衝突しました。



島津公は大久保公を
退けようとして、



その事が用いられなければ、
辞職する。



と、言い出された。
そこで、予は島津公の所を訪ねて・・・



どうも、大久保を退けるという
御議論だそうですが・・・



大久保を退けて
どうなさるお積もりです?



君は薩摩の事情を
知らぬから、そんなことを言うが・・・



折角の調停ながら、
それは聴かれぬ。



それはどうも怪しからぬ事を
仰る。



今日私は薩摩の事情を承りに参った
次第ではありませぬ。



国家の為に、大臣の進退について、
御相談に参ったのである。



それはそうでもあろうが、
俺も人の進退のことを言い出しておいて・・・



毎日登閣して、
顔を見るわけには行かぬ。



それなら、参議だけ
やめさせたら良いでしょう。



それなら
良い。
とにかく、「自分の家臣」であった大久保を「なんとしても辞めさせたい」島津久光。
この久光の子どもっぽい性格が、幕末維新から明治期にかけて、日本の政治に大きな影響を与えました。



という訳で、
予は大久保公に話した。



すると
大久保公は、





どうも外の事と違って、
賄賂を取った、と言われては、終始頭が上がらぬ。



君の親切はわかっているが、
自分の去就だけは、自分で決しさせてくれ。



と言われる。
それも尤もの事である。



さあ、それから、島津公も出ぬ、
岩倉公も退くという次第で・・・



三条公も大久保公も
困りきった。



そこで、
予は、



よろしい。島津公の事は私に存じ寄りも
あるから、お任せなさい。



と言って、それから色々と執りなしている
中に、このことが上聞に達した。


「島津久光vs大久保利通」問題が、三条実美・岩倉具視まで飛び火して、明治天皇に聞こえました。



・・・・・



勅命を
以て・・・



この国家多事の際、たとえ病気でも
勉強して出庁せよ!



という御沙汰が
降った。



・・・・・



それで島津公も出れば、
岩倉公も出る・・・



大久保公も留任すると
いうことになった。
最終的には、「島津久光vs大久保利通」問題は、明治天皇の「勅命」という大事で決しました。
おそらく「上聞に達させた」のは伊藤博文自身であり、いかにも伊藤らしいです。
とにかく、「明治新政府の瓦解」を未然に防いだ伊藤は、ここで大きく株を上げたのでした。

