前回は「「天の使い」信長の延暦寺焼き討ち〜「近江国三分の一」握った延暦寺・強力な偏見を持っていたフロイス・緻密で生々しいフロイスの描写〜」の話でした。
ルイス・フロイスが見た「本能寺」:「高貴の出ではない」光秀

外国人であるルイス・フロイスのイエズス会に対する報告書である、ルイス・フロイス「日本史」。
「報告書」の形式であれば、情勢や分析が最も重要です。
それらの情勢や分析を緻密に行いながらも、
Froisそして聖ミカエルの祝日における右の戦いの時、
この天の使い(信長)は、この山王の社で・・・



彼に敵対して武器を取った千百二十人の
僧侶を殺戮し・・・



近江国の三分の一なる比叡山の
全収入を兵士たちの間に分配した。
ルイス・フロイスは、信長のことを「天の使い」と呼ぶこともありました。
ルイス・フロイスの後年の秀吉に対する誹謗中傷もまた、凄まじいものがあります。
とにかく「好き嫌い」が明確だったルイス・フロイスは、報告書において、様々な表現をしています。


この「好き嫌い」が多数登場する点が、「信長公記」との大きな違いです。
ルイス・フロイス「日本史」と比較すると、淡々とした口調で語っている「信長公記」。
「信長公記」における本能寺の変を、上記リンクでご紹介しています。
ここから、ルイス・フロイス「日本史」における本能寺の変をご紹介します。



信長の宮廷に惟任日向守殿、
別名十兵衛明智殿と称する人物がいた。



彼はもとより高貴の出ではなく、
信長の治世の初期には・・・



公方様の邸の一貴人兵部大輔と
称する人に奉仕していたのであるが・・・



その才略、深慮、狡猾さにより、
信長の寵愛を受けることとなり・・・



主君とその恩恵を利することを
わきまえていた。
本能寺の章では、冒頭から明智光秀が登場しました。
光秀を「彼はもとより高貴の出ではなく」と、「大した身分ではなかった」と明確に語るフロイス。
「ときは今」の真相=謀反の「時」:光秀が超名門・土岐とは無関係の事実


光秀の出身に関しては、諸説あり、最も「高貴の出」は美濃・明智城の城主と考えます。
単なる「雑兵」であった説もあります。
本能寺の変の直前、里村紹巴らと連歌を行った際、、光秀は、



ときは今 あめが下知る
五月かな 明智光秀・・・
有名すぎる「ときは今・・・」を歌い、



水上まさる
庭のまつ山 西坊行祐・・・



花落つる 流れの末を
堰き止めて 里村紹巴・・・
西坊行祐、里村紹巴は、このように連歌を続けた事実があります。
「ときは今」の真意に関する話を、上記リンクでご紹介しています。
・光秀:ときは今 あめが下知る 五月かな
今、時は五月雨の降りしきる五月である
裏に、「今こそ土岐氏の庶流である明智が天下を取る時だ」という意味が隠されているとも言える
・西坊:水上まさる 庭のまつ山
川上の水音が高く聞こえる庭には松山が見える
・里村:花落つる 流れの末を 堰き止めて
水の流れを堰き止めるように花がたくさん散る
この「とき→自らの出身である土岐」であることが、「隠されている」とされる光秀の句。
ところが、ルイス・フロイスは、



彼はもとより高貴の出
ではなく・・
光秀を「大した身分ではなかった」とバッサリ切り捨てています。
| 守護・守護代・国衆(地侍)出身 | 大名 |
| 守護 | 武田家・大友家・島津家・今川家・大内家・六角家・土岐家 |
| 守護代 | 長尾家(上杉家)・朝倉家・尼子家 |
| 国衆(地侍) | 三好家・織田家・徳川家・毛利家・北条家・(豊臣家) |
なんといっても、美濃国守護であった土岐氏は、当時の社会通念では「高い身分」でした。
朝廷の権力が大きく下落する中、下剋上の世だったため、守護もまた不安定な立場でした。
その一方で、「守護」という「国のトップ」であった一族は、戦国期も超名門であったのでした。
仮に光秀が「土岐の端っこの傍流」であったならば、フロイスは、ここまで言わなかったでしょう。
或いは「好悪の感情が激しい」フロイスだったため、「信長殺し」の光秀を貶めたのか?
この可能性はもちろんあります。
ところが、この「日本史」は「イエズス会への報告書」であるため、事実はきちんと描写したフロイス。
実際、フロイス「日本史」の描写は極めて緻密で、多数の数字・数量なども明記されています。
この点を考えれば、客観的視点だったフロイスは「事実を述べていた」と考えます。
すると、明智光秀は「大した身分ではなかった」ことになります。
そして、「ときは今」の「とき」は「土岐」ではなかった、と筆者は考えます。
あくまで「とき」は「時」でしかなかったと考えます。
そして、「とき」は、「謀反の『時』であった」のが、「ときは今」の真相と考えます。


