信長の「最後の上洛」〜安土城から世界を睨んでいた信長・「日本的」ではない豪華絢爛建築・安土城築城大臣丹羽長秀の巨大な政治力〜|本能寺の変7・信長公記14

前回は「永遠の謎の光秀「ときは今」の真意〜地味ながら「超名門守護」の土岐・信長が命じた「信康自決」の真相・良好な同盟関係続けた織田と徳川〜」の話でした。

目次

安土城から世界を睨んでいた信長:「日本的」ではない豪華絢爛建築

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安土城天主 信長の館(新歴史紀行)

当時、日本でただ一つの豪華極まりない安土城で、長年の同盟者であった徳川家康を歓待した信長。

世界において、戦国期の頃は、欧州が世界の中心でした。

現在、世界トップの米国はまだ存在していない時代でした。

欧州と言うと、現代の視点では「英独仏中心」ですが、当時はスペインとポルトガルの時代でした。

当時、世界を分割する勢いだったスペインとポルトガルに関する話を、上記リンクでご紹介しています。

当時、世界の文化の中心地でもあったスペイン、ポルトガル、あるいは中国は豪華な建築が多いです。

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安土城天主 信長の館(新歴史紀行)

安土城は、それらの欧州・中国の豪華絢爛たる建築に全く引けを取らない、壮大な建築でした。

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金閣寺(新歴史紀行)

日本の中世、戦国期までの「豪華な建築」は、その筆頭の一つが金閣寺です。

金閣寺も豪華な建築ですが、規模は小さく、いかにも日本的です。

それに対して、消失してしまったため詳細は不明ですが、安土城は「日本的ではない」のが特徴です。

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安土城図(歴史人2016年12月号KKベストセラーズ)

上の安土城図を見ると、小高い山の上に、キラキラと燦然と輝いていたのが安土城でした。

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安土城址(新歴史紀行)

現代、安土城はすでに廃墟となってしまいましたが、幸運なことに石垣などは残存しています。

戦国末期から江戸期、そして明治以降の時代において、安土城は廃墟のまま保存されたのでした。

安土城を訪問した話を、上記リンクでご紹介しています。

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織田信長の本拠地移転(新歴史紀行)

本拠地を次々と移転させた織田信長は、当時の戦国大名の中で際立って異質な存在でした。

領土が広大になった諸大名の中で、本拠地を移転させた大名は「いなかった」のでした。

そして、安土城から「世界を睨んでいた」のが間違いなかったのが織田信長でした。

信長の「最後の上洛」:安土城築城大臣・丹羽長秀の巨大な政治力

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織田家重臣 丹羽長秀(歴史群像シリーズ 図説・戦国武将118 学研)

そして、この「信長肝入り」とも言える安土城築城の総奉行を務めたのが、丹羽長秀でした。

江戸時代まで使用された「奉行」と言う役職は、「大臣」又は「長官」に相当します。

つまり、織田家において「安土城築城大臣」であった丹羽長秀。

名前生年(一部諸説あり)
林秀貞1513年
柴田勝家1522年
滝川一益1525年
明智光秀1528年
佐久間信盛1528年
織田信長1534年
丹羽長秀1535年
羽柴秀吉1537年
織田信長と織田家重臣の生年

信長は、後世の視点で「晩年」に、重臣であった林秀貞・佐久間信盛を放逐しました。

この信長の意図には諸説ありますが、「新体制づくりのための断行」だったと思われます。

織田家重臣の中でも、「1歳下」であり、若い頃からずっと信長に付き従っていた丹羽長秀。

信長にとって、丹羽長秀は「家臣を超えた親戚」のような存在でした。

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織田四天王:左上から時計回りに柴田勝家、明智光秀、羽柴秀吉、滝川一益(歴史群像シリーズ 図説・戦国武将118 学研、Wikipedia)

丹羽長秀に対する評価は、あまり高くなく、一般的には「織田四天王」の下です。

そもそも、「織田四天王」は著名な諸大名と同格、又はそれ以上の能力を持っていました。

政治・軍事の大天才・織田信長が率いた織田軍団は、戦国の世を席巻しました。

大大名となった、毛利・武田・上杉・大友家などと比較すると、異常な膨張を成し遂げた織田家。

それは一つに織田信長の能力によりますが、家臣団の際立って高い能力も極めて重要でした。

その中で、丹羽長秀は「比較的普通」の武将に扱われますが、政治力は抜群だったと考えます。

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信長公記(太田牛一著、中川太古訳、新歴史紀行)

信長公記において、丹羽長秀は、頻繁に登場する人物の一人です。

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戦国大名 織田信長(歴史群像シリーズ 図説・戦国武将118 学研)
信長公記

織田信澄・丹羽長秀の
二人には、

織田信長

大坂で
家康公の接待をせよ!

信長公記

と、
命じた。

丹羽長秀

ははっ、
お任せ下され!

丹羽長秀は、おそらくこのように「家康公の接待」の全責任を負ったでしょう。

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織田家重臣 明智光秀(歴史群像シリーズ 図説・戦国武将118 学研)
明智光秀

ときは今 あめが下知る
五月かな 明智光秀・・・

丹羽長秀が「徳川家接待大臣」として京から堺に向かった頃、光秀の「ときは今」となりました。

信長公記

五月二十八日、
丹波の亀山に帰城。

信長公記

五月二十九日、
信長は上洛した。

信長公記

安土城本丸のお留守衆に、織田信益・賀藤兵庫頭・野々村又右衛門・
遠山新九郎・世木弥左衛門・市橋源八・櫛田忠兵衛。

毎度のことながら、太田牛一の記述は詳細を極めています。

安土城の留守を守る家臣として、筆頭格と思われる七名を具体的に挙げています。

おそらく、若い小姓レベルの人もいたと思われ、それほど著名な人物ではありません。

ここまで詳細な人名を、太田牛一がどのように記録したのか、は謎です。

当時、それまで何度何度も上洛していた信長。

まさか、信長自身「夢にも思わなかった」でしょう。

織田信長

余の上洛は、
何度目かのう・・・

これが「最後の上洛」となる、とは。

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