前回は「長州藩に帰藩した村田蔵六〜村田カムバックに奔走した桂小五郎・数学や物理のように兵学学んだ蔵六・「兵学」の概念なかった江戸期日本〜」の話でした。

「降格人事+俸禄大幅削減」承知した村田蔵六:長州藩への郷土愛

桂小五郎ここは、是非とも
村田殿には長州藩に帰藩して頂き・・・



我が長州藩の軍事の柱に
なって頂こう・・・
「天下の名士」となっていた元長州藩士・村田蔵六の帰藩に奔走した桂小五郎。
桂小五郎は後の木戸孝允であり、この頃は長州藩の若手の総帥的存在でした。
1860年4月、正式に長州藩の藩士に戻った村田蔵六。



蕃書調所、講武所では
蘭学の学びに懸命に尽くした・・・



そして、
長州藩か・・・
当時の東大準教授に相当する講武所教授手伝出会った村田は、幕府直属の旗本に近い存在でした。
当時、長州は名門藩では、長州藩士となった村田にとっては、いわば「降格人事」でした。
故郷である長州藩への思いもあったでしょうが、淡々と受け入れた村田は、やはり変わり者でした。
| 名前 | 生年 | 所属 |
| 大村 益次郎 | 1825 | 宇和島(長州) |
| 桂 小五郎(木戸 孝允) | 1833 | 長州 |
| 前原 一誠 | 1834 | 長州 |
| 高杉 晋作 | 1839 | 長州 |
| 久坂 玄瑞 | 1840 | 長州 |
| 伊藤 博文 | 1841 | 長州 |
桂小五郎よりも8歳も年上であり、純然たる超名士であった村田は大きな顔をしていたでしょう。
「降格人事」を受け入れ、幕府より格下の長州に戻った村田。
長州藩は、さぞかし大きな禄で報いると思いきや、



村田とのへの報酬は
給米二十五石です・・・
この「長州藩の村田への俸禄」は諸説ありますが、宇和島藩・百石より格段に下でした。
本来ならば、こんな提示を受けた「超名士」村田ならば、



ふざけんな!
やはり、幕府か宇和島藩に戻る!
激怒して、長州藩首脳と大喧嘩するはずでしたが、



そうですか・・・
分かりました・・・
なんと、村田は「宇和島藩より格段に下の報酬」で長州藩に正式に戻ったのでした。
この点は、村田自身の記録等がないため憶測になりますが、やはり「郷土愛」だったのでしょう。
「長州藩士超強化塾」博習堂の巨大な成果:効率的な翻訳書主義へ


ただ、村田が長州藩に帰藩した1860年は、桜田門外ノ変の直後でした。
幕府の威光がガタ落ちになった、「白昼の井伊大老暗殺劇」であった桜田門外ノ変。
村田帰藩は、三月に勃発した桜田門外ノ変の翌月の四月でした。
正式な手続きを経る時間を考えれば、桜田門外ノ変の時点では「村田帰藩」は決定済みでした。
その点では、「幕府の大打撃」を知る前に、村田が長州藩帰藩を承認したことになりますが、



幕府は
圧倒的な存在だが・・・



安政の大獄は
やりすぎだ・・・


学者として村田蔵六は、橋本左内らを大弾圧した幕府に対して、ある種の嫌悪感を持っていたでしょう。
1861年1月、江戸の私塾・鳩居堂を畳んで、長州藩に戻った村田は、



私は博習堂御用掛
ですか・・・
「博習堂御用掛」に就任し、長州藩の軍事整備に奔走しました。



私が長州藩士たちを
教育しましょう・・・
そして、「蘭学の大家」であった村田蔵六は、懸命に長州藩士たちの教育に当たりました。
村田自身が、兵学(陸軍)、海軍、砲術の三科の習得を生徒に義務付け、



とにかく私が蘭学から学んだ兵学を、
長州藩士に伝授する・・・



さすれば、我が国には兵学が
まだまだ未熟だから、長州藩士は合戦に強くなる・・・
当時、兵学という概念自体が乏しかった日本において、長州藩は「村田兵学」を独占しました。
まさに、数学や物理の指導のように、兵学を科学的に指導した村田。



蘭学は原書で学ぶのが
本来の筋だが・・・



それでは、語学習得にばかり
時間が取られてしまう・・・



そこで、原書主義を
改め、翻訳書主義とする!
確かに、「蘭学を学ぶには蘭学から」は王道ですが、何事も外国語を学ぶのは大変なことです。
英語の学習においても、「英語の書籍」をすんなり読めるようになるには相当の学習時間が必要です。
ここで、一気に「翻訳書主義」に切り替えた村田は、やはり慧眼の主でした。



私が翻訳書の内容を
確認した上で、翻訳書を学ぶのだ!
「蘭学の第一人者」であった村田による「翻訳書チェック」は、当時の日本では最高レベルでした。
こうして、翻訳書、又は「村田独自の翻訳書」によって、兵学の教授を受けた長州藩士。
この結果、博習堂の授業の効率は、格段にアップしました。



蘭学書、特に兵学の蘭書の翻訳において、
私の上をゆく人物は・・・



この国には
いない・・・



私が、兵学の蘭書翻訳
第一人者なのだ!
これには、もちろん「兵学の蘭書翻訳第一人者」と自ら任じていた村田だからこそ、でした。
そして、この「長州藩士超強化塾」となった博習堂を見ていた桂小五郎は、



こ、これは・・・
凄まじい効果だ・・・



我が長州藩士たちが
メキメキ力を上げている・・・
「村田大先生の指導」の巨大な成果を目の当たりにしました。



無理してでも、
村田殿に帰藩して頂き良かった・・・
村田を大いに認めた桂は、



今後は、我が長州藩の
軍事指揮官は村田殿しかいない・・・
「長州の軍事の柱は村田」と決定しました。


この頃は、高い指揮能力がある久坂玄瑞や高杉晋作に対する期待もありましたが、



久坂や高杉の突破力には、
大いに期待したいが・・・



やはり総合的な軍事指揮官には、
ぜひ村田殿になって頂きたい・・・
そして、この「桂の決断」によって、「討幕司令官・大村益次郎」が誕生したのでした。

