前回は「天皇・内裏・公家の心を一気に掴んだ信長〜京の寺院勢力を一気に壊滅・徒労に終わった「贈物攻撃」・朝廷と将軍家と寺院〜」の話でした。
強力な偏見を持っていたフロイス:緻密で生々しいフロイスの描写

ルイス・フロイス「日本史」には、織田信長に関する記載が多数あり、興味深いです。

上の写真が「フロイス日本史」の原著ですが、極めて緻密で几帳面に綴られています。
「フロイスの視点」の日本史であり、フロイスの生々しい表現が散りばめられています。
かなり強い偏見を持っていたフロイスは、その「強力な偏見」のままに人物を描写しています。
Frois以上は、かの傲慢にして悪魔的な
寺院の幸いな結末であった。
法華宗の寺院を、将軍家の住まい建築の名目で破壊した信長。



信長は彼(内裏)のために収入を
確定し、彼に多くの贈物をした。



百年来、彼ら(公家)に属していたものを
確認させて、全てを彼らに返還するように命じた。
それに対して、天皇・内裏・公家に対しては、御所(宮殿)・住まいを再建しました。
さらに、天皇・内裏・公家へは、既得権益の確保に加えて新たな俸給を与えました。
これで、「信長入京以前」と「信長入京以後」では、京の様相は一気に反転しました。



まず彼は、都から四里離れた所に位置し、
あらゆる神、仏、蔵書、装飾品を有する・・・



極めて多数の寺院が三里に渡って
展開しており、日本宗派の源泉で、主な大学である・・・



比叡山を完全に焼却、
破壊せしめた。
「信長入京」から時間が少し飛躍しますが、この本では、一気に比叡山焼き討ちに話が飛びます。
当時、多大な経済的権益を有し、最高学府であった比叡山は、まさに日本の中心の一つでした。
浅井・朝倉と敵対した信長は、浅井・朝倉側となった比叡山に対して「焼き討ち」に出たのでした。
「比叡山焼き討ち」は歴史に詳しくない人でも知っているほど有名ですが、割とサラッと語られます。
その実は、「革命的出来事」であり、単なる「寺院焼き討ち」を超えた大事件でした。
「天の使い」信長の延暦寺焼き討ち:「近江国三分の一」握った延暦寺





延暦寺を焼き討ちにして、
壊滅させるのだ!
京では、「焼き討ち」とまで行かなくても、すでに「寺院破壊」を実行していた信長。
ここで、この「寺院破壊」の流れでゆけば、延暦寺に対しても「延暦寺破壊」となります。
ここで、「延暦寺破壊」に留めず、「延暦寺焼き討ち」に大飛躍した信長。
延暦寺に関する話を、上記リンクでご紹介しています。
この「大飛躍」には、信長なりの大いなる目論見があったでしょう。
「破壊」も「焼き討ち」も、建築物が消える点では類似しています。
「破壊」であれば、僧侶は脱出出来る可能性があり、書物や装飾品は残存する可能性が大いにあります。


その一方で、「焼き討ち」は僧侶は焼死する可能性があり、書物や装飾品も焼けて消えてしまいます。
そもそも、僧侶たちに対しては、焼き討ちと同時に直接攻撃も命じた説が有力な信長。
延暦寺に関わる僧侶、書物、装飾品、そして建築物を滅することを敢行したのが信長でした。



彼は極めて著名な山王という
寺院を焼却した。



同社は比叡山に近く八王子という山にあり、
その麓には二十二の・・・



非常に豪華で見事な眺めの神社を持った
清潔な谷がある。



またそこには、華麗で巧妙に作られた大きい
一種の輿が七つあった。
比叡山に関する様々な描写は、それらを形容する言葉とともに、数量を緻密に描写しています。



これらは年に一度、比叡山の全僧侶が出て、
きわめて盛大な行列をする祝祭の折に用いられ・・・



その際、彼らは同所の麓にあって
二十二里の長さの湖上で・・・



すべて武装して舟に乗るのであり、
これを坂本の祭りと称した。
ここで、信長が光秀に与えた「坂本」の地の名前が登場します。


織田家で、家臣として初めて領土を貰った、と伝えられる明智光秀。
| 名前 | 生年(一部諸説あり) |
| 林秀貞 | 1513年 |
| 柴田勝家 | 1522年 |
| 滝川一益 | 1525年 |
| 明智光秀 | 1528年 |
| 佐久間信盛 | 1528年 |
| 織田信長 | 1534年 |
| 丹羽長秀 | 1535年 |
| 羽柴秀吉 | 1537年 |
光秀は、織田家累代の重臣たちを「差し置いた」形となりました。
その一方で、当時の明智光秀の立場は、「重臣たちより上」であったのもまた事実でした。


この頃は、「微妙な関係」となっていたものの、形式的には「足利義昭の家臣」であった、織田信長。
そして、軽い立場ながら明確な「足利義昭の家臣」であった、明智光秀。
信長と光秀は、見方によっては、同格の「足利義昭の家臣」とも言える立場でした。
このこともあってか、光秀は「信長の家臣」に先んじて所領をもらいました。



光秀に
坂本五万石を与える!



はっ、
有り難き幸せ!
当時は、このように「極めて良好な関係」にあったのが信長と光秀でした。
そして、「近江坂本」は、五万石だけではない「比叡山ゆかりの地」であることが明記されています。



これら全ては信長によって
灰燼に帰した。



そして聖ミカエルの祝日における右の戦いの時、
この天の使い(信長)は、この山王の社で・・・



彼に敵対して武器を取った千百二十人の
僧侶を殺戮し・・・



近江国の三分の一なる比叡山の
全収入を兵士たちの間に分配した。
ここで、フロイスは信長のことを「天の使い」と称している点が、興味深いです。
そして、「近江の三分の一もの莫大な収入」を握っていた延暦寺。


戦国期、広大すぎる陸奥を除けば、全国一の78万石ほどの石高を誇った近江。
近江は、京・山城の隣国であるため商業も発展していました。
さらに、越前から琵琶湖を通る流通路でもあり、戦国後期には鉄砲生産地・国友村もありました。
「圧倒的な国力を有した」近江国の「三分の一の収入」は、さすがに大きすぎる様にも思います。
仮に、近江国の「四分の一、五分の一の収入」でも、中規模大名に匹敵する国力でした。
少し過大な様にも感じますが、フロイスの情報力を考えると、「正しい」と筆者は考えます。
延暦寺の圧倒的な力の源泉こそが「近江国三分の一の収入」だったのでした。


