「天の使い」信長の延暦寺焼き討ち〜「近江国三分の一」握った延暦寺・強力な偏見を持っていたフロイス・緻密で生々しいフロイスの描写〜|ルイス・フロイス「日本史」16

前回は「天皇・内裏・公家の心を一気に掴んだ信長〜京の寺院勢力を一気に壊滅・徒労に終わった「贈物攻撃」・朝廷と将軍家と寺院〜」の話でした。

目次

強力な偏見を持っていたフロイス:緻密で生々しいフロイスの描写

New Historical Voyage
信長公記(太田牛一著、中川太古訳、新歴史紀行)

ルイス・フロイス「日本史」には、織田信長に関する記載が多数あり、興味深いです。

New Historical Voyage
ルイス・フロイス「日本語」原書(Wikipedia)

上の写真が「フロイス日本史」の原著ですが、極めて緻密で几帳面に綴られています。

「フロイスの視点」の日本史であり、フロイスの生々しい表現が散りばめられています。

かなり強い偏見を持っていたフロイスは、その「強力な偏見」のままに人物を描写しています。

Frois

以上は、かの傲慢にして悪魔的な
寺院の幸いな結末であった。

法華宗の寺院を、将軍家の住まい建築の名目で破壊した信長。

Frois

信長は彼(内裏)のために収入を
確定し、彼に多くの贈物をした。

Frois

百年来、彼ら(公家)に属していたものを
確認させて、全てを彼らに返還するように命じた。

それに対して、天皇・内裏・公家に対しては、御所(宮殿)・住まいを再建しました。

さらに、天皇・内裏・公家へは、既得権益の確保に加えて新たな俸給を与えました。

これで、「信長入京以前」と「信長入京以後」では、京の様相は一気に反転しました。

Frois

まず彼は、都から四里離れた所に位置し、
あらゆる神、仏、蔵書、装飾品を有する・・・

Frois

極めて多数の寺院が三里に渡って
展開しており、日本宗派の源泉で、主な大学である・・・

Frois

比叡山を完全に焼却、
破壊せしめた。

「信長入京」から時間が少し飛躍しますが、この本では、一気に比叡山焼き討ちに話が飛びます。

当時、多大な経済的権益を有し、最高学府であった比叡山は、まさに日本の中心の一つでした。

浅井・朝倉と敵対した信長は、浅井・朝倉側となった比叡山に対して「焼き討ち」に出たのでした。

「比叡山焼き討ち」は歴史に詳しくない人でも知っているほど有名ですが、割とサラッと語られます。

その実は、「革命的出来事」であり、単なる「寺院焼き討ち」を超えた大事件でした。

「天の使い」信長の延暦寺焼き討ち:「近江国三分の一」握った延暦寺

新歴史紀行
延暦寺:鐘楼(新歴史紀行)
織田信長

延暦寺を焼き討ちにして、
壊滅させるのだ!

京では、「焼き討ち」とまで行かなくても、すでに「寺院破壊」を実行していた信長。

ここで、この「寺院破壊」の流れでゆけば、延暦寺に対しても「延暦寺破壊」となります。

ここで、「延暦寺破壊」に留めず、「延暦寺焼き討ち」に大飛躍した信長。

延暦寺に関する話を、上記リンクでご紹介しています。

この「大飛躍」には、信長なりの大いなる目論見があったでしょう。

「破壊」も「焼き討ち」も、建築物が消える点では類似しています。

「破壊」であれば、僧侶は脱出出来る可能性があり、書物や装飾品は残存する可能性が大いにあります。

新歴史紀行
延暦寺:阿弥陀堂(新歴史紀行)

その一方で、「焼き討ち」は僧侶は焼死する可能性があり、書物や装飾品も焼けて消えてしまいます。

そもそも、僧侶たちに対しては、焼き討ちと同時に直接攻撃も命じた説が有力な信長。

延暦寺に関わる僧侶、書物、装飾品、そして建築物を滅することを敢行したのが信長でした。

Frois

彼は極めて著名な山王という
寺院を焼却した。

Frois

同社は比叡山に近く八王子という山にあり、
その麓には二十二の・・・

Frois

非常に豪華で見事な眺めの神社を持った
清潔な谷がある。

Frois

またそこには、華麗で巧妙に作られた大きい
一種の輿が七つあった。

比叡山に関する様々な描写は、それらを形容する言葉とともに、数量を緻密に描写しています。

Frois

これらは年に一度、比叡山の全僧侶が出て、
きわめて盛大な行列をする祝祭の折に用いられ・・・

Frois

その際、彼らは同所の麓にあって
二十二里の長さの湖上で・・・

Frois

すべて武装して舟に乗るのであり、
これを坂本の祭りと称した。

ここで、信長が光秀に与えた「坂本」の地の名前が登場します。

新歴史紀行
戦国大名 明智光秀(歴史群像シリーズ 図説・戦国武将118 学研)

織田家で、家臣として初めて領土を貰った、と伝えられる明智光秀。

名前生年(一部諸説あり)
林秀貞1513年
柴田勝家1522年
滝川一益1525年
明智光秀1528年
佐久間信盛1528年
織田信長1534年
丹羽長秀1535年
羽柴秀吉1537年
織田信長と織田家重臣の生年

光秀は、織田家累代の重臣たちを「差し置いた」形となりました。

その一方で、当時の明智光秀の立場は、「重臣たちより上」であったのもまた事実でした。

新歴史紀行
第十五代足利将軍 足利義昭(Wikipedia)

この頃は、「微妙な関係」となっていたものの、形式的には「足利義昭の家臣」であった、織田信長。

そして、軽い立場ながら明確な「足利義昭の家臣」であった、明智光秀。

信長と光秀は、見方によっては、同格の「足利義昭の家臣」とも言える立場でした。

このこともあってか、光秀は「信長の家臣」に先んじて所領をもらいました。

織田信長

光秀に
坂本五万石を与える!

明智光秀

はっ、
有り難き幸せ!

当時は、このように「極めて良好な関係」にあったのが信長と光秀でした。

そして、「近江坂本」は、五万石だけではない「比叡山ゆかりの地」であることが明記されています。

Frois

これら全ては信長によって
灰燼に帰した。

Frois

そして聖ミカエルの祝日における右の戦いの時、
この天の使い(信長)は、この山王の社で・・・

Frois

彼に敵対して武器を取った千百二十人の
僧侶を殺戮し・・・

Frois

近江国の三分の一なる比叡山の
全収入を兵士たちの間に分配した。

ここで、フロイスは信長のことを「天の使い」と称している点が、興味深いです。

そして、「近江の三分の一もの莫大な収入」を握っていた延暦寺。

新歴史紀行
戦国期の国別石高(歴史群像シリーズ 1 織田信長 学研)

戦国期、広大すぎる陸奥を除けば、全国一の78万石ほどの石高を誇った近江。

近江は、京・山城の隣国であるため商業も発展していました。

さらに、越前から琵琶湖を通る流通路でもあり、戦国後期には鉄砲生産地・国友村もありました。

「圧倒的な国力を有した」近江国の「三分の一の収入」は、さすがに大きすぎる様にも思います。

仮に、近江国の「四分の一、五分の一の収入」でも、中規模大名に匹敵する国力でした。

少し過大な様にも感じますが、フロイスの情報力を考えると、「正しい」と筆者は考えます。

延暦寺の圧倒的な力の源泉こそが「近江国三分の一の収入」だったのでした。

新歴史紀行

この記事が気に入ったら
フォローしてね!

目次