前回は「「一定の方針をとって着々歩を進めた」大久保利通〜シビれた若き伊藤・大久保から内務を任された伊藤博文・「兄貴分」清国との死闘〜」の話でした。
「最も多難な指導」推進した大久保:次々勃発した外征と内乱

明治維新から明治時代を駆け抜けた伊藤博文の言葉である「伊藤公直話」。
| 語る対象 | ページ数 |
| 大久保利通 | 15 |
| 木戸孝允 | 22.5 |
| 西郷隆盛(南州) | 1 |
| 高杉晋作 | 0.2 |
| 三条実美 | 6 |
| 岩倉具視 | 11 |
| 島津久光 | 0.5 |
| 島津斉彬 | 2 |
| 吉田松陰 | 1 |
| 長井雅楽 | 1.5 |
| 藤田東湖 | 1 |
| 大村益次郎 | 2 |
| 佐久間象山 | 0.2 |
| パークス | 7 |
| 弘法大師 | 1 |
| 狩野芳崖+橋本雅邦 | 2 |
| 豊臣秀吉 | 0.2 |
| 菅原道真 | 0.2 |
| 森槐南+矢土錦山 | 0.2 |
| 合計 | 74.5 |
伊藤博文が最も多く語っているのは、もちろん「師匠」である木戸孝允です。
幕末維新の風雲時、木戸孝允は長州藩首領として藩を率い、伊藤博文は補佐役であり続けました。
ところが、維新政府成立後、急速に政治力を失った木戸に対して、伊藤はやや距離を置きました。
そして、大久保を「新たな師匠」とした伊藤博文。
そのこともあり、伊藤博文自身の編纂ではありませんが、「伊藤公直話」トップは大久保です。
大久保利通自分は身を挺して
北京に赴き・・・



直接に清国の当路者と
論判をして見たい・・・
台湾征討に関して、当時の日本政府の「事実上の首相」であった大久保自らが収拾に乗り出しました。



これは実に、公が人と
異なった特性を持っておられたからである・・・
「殺される」危険性があったにも関わらず、自ら清国に向かう大久保に対し、伊藤は尊敬を強めました。



公は内務卿時代に、国内の産業を勧めることに
就いても、種々の事を計画して、よほど尽力せられた。



明治七年には佐賀の乱、台湾の事件があり、
八年には朝鮮の江華島のことがあり・・・



九年には肥後の騒ぎ、前原の変があり、
当時の世の中というものは殆ど寧日がなかったから・・・



事業を勧めてみたところが、たやすく効は
期せられなかった。



それに人民の知識も開けていないから、
労のみ多くして、功が伴わなかった。
確かに、明治六年の政変後は、次々と大事件が起きた明治政府。



要するに、公は、最も多難な
指導の事に当たられたのである。



・・・・・
対外戦争、内乱が次々と勃発したのを、次々と捌いた大久保は確かに絶大な指導者でした。
巨大な「危難の際に局面を維持する力」と大久保利通:革新時の分裂


そして、いよいよ明治十年の西南戦争となります。



それから十年の戦争であるが、
この戦争には、公と予は一緒に大阪に出ておられて・・・



主に政府で扱う仕事を
やっておられた。



これで戦争が鎮定してから地方官会議を開き、
地方制度上に着々改良を加えて行こうとされたが・・・



その時、不幸にも公は
暗殺されてしまった。
明治前半の最大に事件である西南戦争に対しては、伊藤博文は「サラッと」述べています。
この時、「冷酷な人物」とされる大久保利通は、相当の苦悩があったと思われます。
ところが、この「大久保の苦悩」に関しては、伊藤はあえて触れようとしませんでした。
岩倉具視の章では、



西南の乱は、今から見れば
実に馬鹿馬鹿しい間違いで・・・
西南戦争・西郷挙兵を「実に馬鹿馬鹿しい」と切って捨てた伊藤を、上記リンクでご紹介しています。



公の事蹟を、一言にして思えば、
危難の際に局面を維持する力が非常に強い・・・



という一句で
尽くされると思う。
確かに「危難の際に局面を維持する力」に関しては、大久保は世界史上でも指折りの人物です。
この一言・一句で大久保という人物を表現した伊藤もまた、センス抜群です。



いかさま公の時代は、日本が開けるか
開けぬかという大切な時であった。



明治六年、使節一行がヨーロッパから
帰朝した。



征韓論が破裂すると、政府の有力者は
二つに分かれて、一半は朝に留まり・・・



一半は野に
下った。



その時、朝に残った人達は、
陣容を立て直して庶政の革新に努めた。



明治七年一月になって、先に征韓論の故に
辞職した副島・板垣などから・・・



民選議院を起せという
建白書が出た。
明治六年の政変・征韓論争以降「政府分裂」の経緯を淡々と語る伊藤博文。
確かに、明治六年の政変は「正反対の意見」によって「二つに分かれた」だけの事件でした。
伊藤の観点から見れば、明治六年の政変から西南戦争は、やや冷静な印象となります。
「庶政の革新」において、「避けられなかった事件」に過ぎないようにも感じられます。


