前回は「一気に打って出た近衛首相〜奇策「内閣総辞職」で松岡更迭・帝国政府最高会議の異常事態・「全く一言も発言しなかった」近衛〜」の話でした。
遅すぎた近衛首相の「松岡更迭」の決断:「外交白紙委任状」如き松岡の暴走

もはや、「どうにもならない関係」であった近衛首相と松岡外相。
1941年7月12日の連絡会議では、「正反対の外交方針であること」が如実に現れました。
松岡洋右外交は、この松岡に
全て任せて頂こう・・・
第二次近衛内閣成立時、近衛首相が「懇請して外相になってもらった」松岡外相。
| 名前 | 生年 | 役職 |
| 平沼 騏一郎 | 1867 | 内務大臣、元総理大臣 |
| 杉山 元 | 1880 | 参謀総長 |
| 松岡 洋右 | 1880 | 外務大臣 |
| 永野 修身 | 1880 | 軍令部総長 |
| 及川 古志郎 | 1883 | 海軍大臣 |
| 東條 英機 | 1884 | 陸軍大臣 |
| 近衛 文麿 | 1891 | 総理大臣 |
近衛としては、確かに「11歳年上で、多数の全権大使歴任者」である松岡は強力な存在でした。
ところが、傲岸不遜な性格であった松岡外相は「外交の白紙委任状受領」の如く、勝手に動きました。


1941年4月13日には、ほぼ独断でスターリン首相・モロトフ外相と日ソ中立条約をまとめた松岡外相。
| 地域 | 覇者 |
| 西欧 | ドイツ |
| 東亜 | 大日本帝国 |
| 米州 | 米国 |
| ロシア | ソ連 |
この「日ソ中立条約」は松岡構想から考えると、「真に的を得ていた」のでしたが、実情は違いました。
それは歴史が示しています。



大日本帝国とドイツ、
ソ連が手を結ぶのだ・・・





Sovietに
侵攻する!
日ソ中立条約締結後、二月ほど後の1941年6月22日に、世界の歴史を変える大事件が勃発。
ヒトラーが、独ソ中立条約を一方的に破棄し、ソ連に侵攻開始したのでした。
これで「松岡構想」は完全に崩壊してしまいました。
近衛首相は、「松岡更迭」の決断が遅すぎました。
「松岡更迭」に踏み切るならば、「松岡独断専行」が目立ち始めた1941年3月頃にすべきでした。
仮に「日ソ中立条約」が存在せず、ドイツと共に帝国陸軍がソ連に侵攻していたら。
その時、日本のみならず、世界の歴史は大きく変わったでしょう。
海軍に「外交任せた」近衛首相:政府に「クギ刺した」陸海軍統帥部


そして、豊田貞次郎が外務大臣となりました。
これは、近衛首相の「対陸軍と海軍への配慮」がありました。


もう一つ重要な点は、野村吉三郎米大使もまた海軍であることでした。
| 海軍兵学校卒業期 | 名前 | 役職 |
| 26 | 野村 吉三郎 | 米大使 |
| 28 | 永野 修身 | 軍令部総長 |
| 31 | 及川 古志郎 | 海軍大臣 |
| 32 | 山本 五十六 | 連合艦隊司令長官 |
| 33 | 豊田 貞次郎 | 外務大臣 |
つまり、野村大使-豊田外相の「海軍ライン」に対米交渉を任せようとしたのが近衛首相でした。
ところが、この「遅すぎた決断」は、帝国政府の外交に甚大な悪影響を及ぼしました。
この頃、既に大規模な作戦を準備していた大本営にとって、「突然の政変」は歓迎できませんでした。



南部仏印進駐の準備と関特演の中途に
おける突然の政変は・・・



陸海軍統帥部に対し、
少なからず不安を与えた。



しかも豊田新外相の登場は、
一見して新内閣が三国枢軸離脱の方向に・・・



傾くのではないかを
思わせた。
もともと、豊田外相は「外交とは無縁」でしたが、「三国同盟反対者」でした。
この「豊田は三国同盟反対」は広く知られていたため、大本営は危惧したのは当然でした。



三国同盟など、
潰してしまいたい・・・
実際、「三国同盟超反対派」であった近衛首相は、「枢軸離脱」を意図していました。



軍令部の幕僚の中にも
豊田外相の就任に反対の意向をもつ者もいた。
そして、肝心の海軍大本営・軍令部の中にも「豊田外相反対」の声が上がってしまいました。



そこで、7月21日新政府と大本営の
最初の連絡会議が、顔合わせの意味合いで行われた際・・・



陸海軍統帥部長は、政府に対し、
次の如き要望を開示した。
一、目下進行中の対仏印軍事的措置に関しては、統帥部として規定通り的確に(内容及び期日共に)之を実行するを要するに付き、政府の諸施策も緊密に之に同調せしめられ度
二、既に発足進行中の対南方及び北方せんびに関しては、之が渋滞遅延を許さず
三、三国枢軸精神に背馳せざる如く其の策に遺憾なきを期せられ度
要するに、政府に対して「今更、国策を変えるな」と釘を刺した陸海軍統帥部・大本営。



今は政変中だから、
7月15日第二次対案は・・・



米国に出さない方が
良かろう・・・
さらに、この「政変」は、外交の混乱を招きました。
「政変」を理由に、外務省から訓令を出していた第二次対案を「提出しなかった」野村大使。
これは、外務省の命令ではなく「独断」でした。
そして、この野村大使の「甘い考え」は、米国からの反撃を誘発してしまうことになります。

