遅すぎた近衛首相の「松岡更迭」の決断〜「外交白紙委任状」如き活動・海軍に「外交任せた」近衛首相・政府に「クギ刺した」陸海軍統帥部〜|陸海軍の迷走33・日米開戦と真珠湾へ

前回は「一気に打って出た近衛首相〜奇策「内閣総辞職」で松岡更迭・帝国政府最高会議の異常事態・「全く一言も発言しなかった」近衛〜」の話でした。

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遅すぎた近衛首相の「松岡更迭」の決断:「外交白紙委任状」如き松岡の暴走

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1941年6月頃の日本政府・幹部:左上から時計回りに、近衛文麿首相、松岡洋右外相、及川古志郎海相、東條英機陸相(Wikipedia)

もはや、「どうにもならない関係」であった近衛首相と松岡外相。

1941年7月12日の連絡会議では、「正反対の外交方針であること」が如実に現れました。

松岡洋右

外交は、この松岡に
全て任せて頂こう・・・

第二次近衛内閣成立時、近衛首相が「懇請して外相になってもらった」松岡外相。

名前生年役職
平沼 騏一郎1867内務大臣、元総理大臣
杉山 元1880参謀総長
松岡 洋右1880外務大臣
永野 修身1880軍令部総長
及川 古志郎1883海軍大臣
東條 英機1884陸軍大臣
近衛 文麿1891総理大臣
帝国政府・大本営大幹部たち(1941年6月)

近衛としては、確かに「11歳年上で、多数の全権大使歴任者」である松岡は強力な存在でした。

ところが、傲岸不遜な性格であった松岡外相は「外交の白紙委任状受領」の如く、勝手に動きました。

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日ソ中立条約(Wikipedia)

1941年4月13日には、ほぼ独断でスターリン首相・モロトフ外相と日ソ中立条約をまとめた松岡外相。

地域覇者
西欧ドイツ
東亜大日本帝国
米州米国
ロシアソ連
「世界四大ブロック」の松岡構想

この「日ソ中立条約」は松岡構想から考えると、「真に的を得ていた」のでしたが、実情は違いました。

それは歴史が示しています。

松岡洋右

大日本帝国とドイツ、
ソ連が手を結ぶのだ・・・

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左上から時計回りに、近衛文麿 首相、Franklin Roosevelt米大統領、Winston Churchill英国首相、Adolf Hitler独総統(国立国会図書館、Wikipedia)
Hitler

Sovietに
侵攻する!

日ソ中立条約締結後、二月ほど後の1941年6月22日に、世界の歴史を変える大事件が勃発。

ヒトラーが、独ソ中立条約を一方的に破棄し、ソ連に侵攻開始したのでした。

これで「松岡構想」は完全に崩壊してしまいました。

近衛首相は、「松岡更迭」の決断が遅すぎました。

「松岡更迭」に踏み切るならば、「松岡独断専行」が目立ち始めた1941年3月頃にすべきでした。

仮に「日ソ中立条約」が存在せず、ドイツと共に帝国陸軍がソ連に侵攻していたら。

その時、日本のみならず、世界の歴史は大きく変わったでしょう。

海軍に「外交任せた」近衛首相:政府に「クギ刺した」陸海軍統帥部

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豊田貞次郎 外相(Wikipedia)

そして、豊田貞次郎が外務大臣となりました。

これは、近衛首相の「対陸軍と海軍への配慮」がありました。

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野村吉三郎 米国大使(丸 戦争と人物11 軍事テクノロジーへの挑戦 潮書房)

もう一つ重要な点は、野村吉三郎米大使もまた海軍であることでした。

海軍兵学校卒業期名前役職
26野村 吉三郎米大使
28永野 修身軍令部総長
31及川 古志郎海軍大臣
32山本 五十六連合艦隊司令長官
33豊田 貞次郎外務大臣
帝国政府・軍令部・連合艦隊の役職・海軍兵学校卒業期(1941年12月)

つまり、野村大使-豊田外相の「海軍ライン」に対米交渉を任せようとしたのが近衛首相でした。

ところが、この「遅すぎた決断」は、帝国政府の外交に甚大な悪影響を及ぼしました。

この頃、既に大規模な作戦を準備していた大本営にとって、「突然の政変」は歓迎できませんでした。

大東亜戦争全史

南部仏印進駐の準備と関特演の中途に
おける突然の政変は・・・

大東亜戦争全史

陸海軍統帥部に対し、
少なからず不安を与えた。

大東亜戦争全史

しかも豊田新外相の登場は、
一見して新内閣が三国枢軸離脱の方向に・・・

大東亜戦争全史

傾くのではないかを
思わせた。

もともと、豊田外相は「外交とは無縁」でしたが、「三国同盟反対者」でした。

この「豊田は三国同盟反対」は広く知られていたため、大本営は危惧したのは当然でした。

近衛文麿

三国同盟など、
潰してしまいたい・・・

実際、「三国同盟超反対派」であった近衛首相は、「枢軸離脱」を意図していました。

大東亜戦争全史

軍令部の幕僚の中にも
豊田外相の就任に反対の意向をもつ者もいた。

そして、肝心の海軍大本営・軍令部の中にも「豊田外相反対」の声が上がってしまいました。

大東亜戦争全史

そこで、7月21日新政府と大本営の
最初の連絡会議が、顔合わせの意味合いで行われた際・・・

大東亜戦争全史

陸海軍統帥部長は、政府に対し、
次の如き要望を開示した。

陸海軍統帥部:要望(1941年7月21日・抜粋)

一、目下進行中の対仏印軍事的措置に関しては、統帥部として規定通り的確に(内容及び期日共に)之を実行するを要するに付き、政府の諸施策も緊密に之に同調せしめられ度

二、既に発足進行中の対南方及び北方せんびに関しては、之が渋滞遅延を許さず

三、三国枢軸精神に背馳せざる如く其の策に遺憾なきを期せられ度

要するに、政府に対して「今更、国策を変えるな」と釘を刺した陸海軍統帥部・大本営。

野村吉三郎

今は政変中だから、
7月15日第二次対案は・・・

野村吉三郎

米国に出さない方が
良かろう・・・

さらに、この「政変」は、外交の混乱を招きました。

「政変」を理由に、外務省から訓令を出していた第二次対案を「提出しなかった」野村大使。

これは、外務省の命令ではなく「独断」でした。

そして、この野村大使の「甘い考え」は、米国からの反撃を誘発してしまうことになります。

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