前回は「不気味な沈黙続けた近衛首相〜「イヤイヤ」交渉継続明言した松岡外相・ハルの挑発文書への怒り・「真っ当な意見」だった東條陸相・暗礁に乗り上げた日米関係と「真珠湾」前夜〜」の話でした。
帝国政府最高会議の異常事態:「全く一言も発言しなかった」近衛

松岡洋右対米交渉は、これ以上継続
出来ぬことをここに提議する・・・



交渉の余地を残すのが
適当である・・・



努力しても
宜しいではないか・・・



望みがなくとも
最後までやり度い・・・
ハル・オーラルステートメントに対し、激怒し続ける松岡に対して、多数の人物が反対しました。
後世の視点からは、「強硬派」と見られる陸軍が、杉山参謀総長、東條陸相共に「交渉継続派」でした。
| 名前 | 生年 | 役職 |
| 平沼 騏一郎 | 1867 | 内務大臣、元総理大臣 |
| 杉山 元 | 1880 | 参謀総長 |
| 松岡 洋右 | 1880 | 外務大臣 |
| 永野 修身 | 1880 | 軍令部総長 |
| 及川 古志郎 | 1883 | 海軍大臣 |
| 東條 英機 | 1884 | 陸軍大臣 |
| 近衛 文麿 | 1891 | 総理大臣 |
この中、最年少であるものの、「国家の顔」であるはずの近衛首相。





・・・・・
近衛首相は全く発言せず、黙ったままでした。
超名門・超エリートである近衛に対して、名門度では落ちるものの、周囲の皆も超エリートでした。
この中、松岡外相・杉山参謀総長・東條陸相・平沼議長等に「近衛軽視」の視線があったのでしょう。
特に平沼騏一郎に至っては、近衛文麿の24歳年上であり、「父親に近い」存在でした。



かくして、会議は、
ステートメントはこれを拒否するが・・・



交渉は概ね最初の日本案の選によって
続行することに決した。



この結果、7月15日、日本側の
第二次修正提案がなされた。
そして、「ハル・ステートメントは拒否+第二次修正提案」に落ち着きました。



7月12日の連絡会議において、
近衛首相は全く一言も発言しなかった。



然し、今や松岡外相と他の閣僚就中近衛首相との
意見の対立は深刻なるものがあり・・・



対米交渉の促進が
至難なることは明らかであった・・・
「大東亜戦争全史1」では、近衛首相が「全く一言も発言しなかった」異常事態を綴っています。
一気に打って出た近衛首相:奇策「内閣総辞職」で松岡更迭


実は、すでに近衛文麿首相は、重大な決意を胸に秘めていました。



私の考えは、従来から
ずっと対米協調だ・・・



それに対し、松岡外相は、
真っ向から米国に逆らっている・・・



これでは、本当に米国と
戦争になってしまう・・・



こうなったら、
松岡を消すしかない・・・
こう考えた近衛首相は、7月15日に東條陸相・及川海相と協議しました。



松岡外相に
辞めてもらいたいのですが・・・
現代の総理大臣と異なり、当時の総理大臣は「大臣更迭権」がありませんでした。
そのため、他の閣僚と相談して「松岡に辞任してもらう」しかありませんでした。
この「辞めてもらいたい閣僚には辞任してもらうしかない」事態は、後に東條首相も苦しめます。



まあ、流石に
松岡さんだけ辞めてもらうのは・・・



松岡さんも一生懸命
やってはいるし・・・



対米外交を続ける、と
言っているから・・・
ところが、陸相・海相共に反論しました。



松岡外相のみの更迭は
適当にならずとして・・・
ここで、近衛首相は「松岡更迭を強行」する荒技に出ました。



第二次近衛内閣は
総辞職します!



総辞職なので、全員の大臣は
一度やめてもらいます!
7月16日夜、第二次近衛内閣は総辞職を行いました。
まさに「政変に近い」と言うよりも「政変そのもの」だった内閣総辞職でした。



!!!!!
この松岡がクビ、だと・・・



大命は近衛公に再降下し、
7月18日第三次近衛内閣が成立した。



新内閣の外相は、全商工大臣海軍大将
豊田貞次郎であり・・・



三名を除く大部の閣僚が
全閣僚で占められていた。



言うまでもなく、内閣の更迭は、専ら対米交渉の
促進を図らんとする意図に出たものであった。


ここで、新たに豊田貞次郎が外相に就任しましたが、どう考えても不自然でした。
そもそも、海軍次官・商工大臣を歴任した豊田でしたが、外交は「無経験者」でした。
周囲の推薦もあったでしょうが、



陸軍は横暴だから、
海軍を味方につけたい・・・
おそらく、近衛首相はこのように考えたのでしょう。

