前回は「壮麗な「水城+平山城」の宇和島城〜多数の石段を上がり天守閣へ・「華麗な水城」の藤堂高虎「最初の城」・伊達宗城が見出した大村益次郎〜」の話でした。
明智光秀が生み出した「水城」という城郭建築形式:華麗な坂本城

小高い丘というよりも小高い山に築かれた宇和島城。

宇和島城は、「平山城+水城」という極めて異例の特徴があります。
城郭の中でも、「水城」はかなり希少であり、極めて実例が少ないです。

琵琶湖河畔に建築された安土城は、「水城の一例」と言えなくもないです。
安土城趾を訪問した話を、上記リンクでご紹介しています。
信長が、新たな巨城建築の地として安土を選んだのは、諸説あります。
最も有力な説は、「京に近く、一定の距離があり、水運で京に早期に到達可能である」点です。
この点から考えると、信長が安土城に求めたのは「水城ではなかった」とも言えます。

そして、戦国時代における、水城の代表例となったのが、明智光秀の坂本城です。
「本能寺」直後の明智討滅戦によって、坂本城は灰燼となってしまい、上の図はイメージです。
坂本城付近の発掘調査は、ある程度進められ、上のように湖に突き出た水城であった可能性が高いです。

明智光秀この明智光秀が、
戦国最初の水城を生んだのだ!
卓越した築城術を持っていた光秀は、水城という「新たな城郭建築」を生み出しました。
坂本城が上のイメージ図のようであったら、極めて華麗な城郭建築だったでしょう。
巨大な存在感放った琵琶湖と水城


そして、後に坂本城を生み出した藤堂高虎が、30過ぎの時に建築したのが宇和島城でした。
藤堂「最初の築城」となった宇和島城は、当時は板島丸串城と呼ばれました。


1556年に近江に生まれ、最初は、当然ながら、近江の戦国大名・浅井長政に仕えた藤堂高虎。
当時、京中心の国家像であり、京・山城の隣国だった近江は、「首都圏」でした。
また、壬申の乱以降、ずっと「戦乱の中心地」であり続けたのが近江でした。


当時の日本における琵琶湖の印象は、現代の日本における印象よりも、遥かに大きい存在でした。
そして、浅井家滅亡後は、新たな近江領主となった織田家に仕え、羽柴秀吉・羽柴秀長に仕えた高虎。
秀吉の長浜城からは、光秀の華麗な坂本城が見えたでしょう。



水城というのは、
とても華麗だ・・・



私も将来
水城を築城したい・・・
若き高虎は、このように夢想したでしょう。
水城は、坂本城や高虎が後年築城する今治城のように「平城」であるのが大事です。
それにも関わらず、「平山城+水城」を選んだ高虎。





高虎に
伊予宇和郡7万石を任せる!
伊予で新たに7万石の領土を、秀吉から拝領した高虎。
「7万石」という領土は、石高として大きくはありませんが、「一定の規模」です。
一気に、ある程度の経済力を有した高虎は、大いに奮ったでしょう。
ただ一つの華麗な「水城+平山城」の宇和島城


おそらくは、もともと「ある程度の城郭が出来ていた」板島丸串城を見て、



最初から築城したいが、
金銭も時間もかかる・・・



この板島丸串城は
海に近く、水城のイメージだ・・・
「瀬戸内海の近く」であった板島丸串城は、平城ではなく、平山城でした。
室町末期以降、豊後の巨大大名・大友氏の侵攻を受けていた、伊予・宇和郡周辺の地。
ここに、初期の板島丸串城を建築したのは、橘氏という説があります。
おそらく、橘氏は「防衛に有利な山の上」に板島丸串城を築いたのでしょう。
そして、「海の近く」は「水城」ではなく、「水運重視」だったと思われます。
それを、高虎は、周辺の開発も進めて「水城」とすることにしたと思われます。



よしっ!
この板島丸串城に手を入れて・・・



本格的な
平山城+水城としよう!


標高74mと言われる宇和島城は、石段をかなり上がって、天守閣に向かいます。


一つの石段を上がって後ろを見たのが、上の写真です。
この石段だけでも結構な高さを上がっているのが分かります。


ところどころ、当時の大きな石垣が残る石段をどんどん上がってゆきます。
「平山城」ですが、「山城」に近いイメージなのが宇和島城です。
これらの石垣もまた、原型を作ったのは藤堂高虎と思われます。
平な地ではなく、傾斜面に石垣を作るのは、かなり大変なことと思われます。
おそらく、高虎は宇和島城築城・増築で、様々な築城術を習得したと思われます。
小高い山の中を石段を上がって、宇和島城天守閣に向かいます。
次回は上記リンクです。




