重傷を負う大敗北の教訓を活かした島津義弘〜伊東と島津の死闘・「海と一体化した山」桜島の存在と島津・「薩摩内海」錦江湾〜|島津義弘4・人物像・エピソード

前回は「10倍の敵を倒した「若き闘神」島津義弘〜大友と龍造寺と島津・島津の「守護の格式強化」の狙い・下剋上と大義名分〜」の話でした。

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戦国大名 島津義弘(図説・戦国武将118 学研)
目次

「海と一体化した山」桜島の存在と島津:「薩摩内海」錦江湾

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鹿児島・桜島(新歴史紀行)

鹿児島の代名詞である桜島は、確かに不思議な存在感を持っています。

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真田氏歴史館・真田氏館跡(新歴史紀行)

山、と言えば、日本で最も平均標高が高く、風光明媚な信濃の山々が思い浮かびます。

信州・真田庄の話を上記リンクでご紹介しています。

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会津の山(新歴史紀行)

あるいは山々が連なっている会津もまた、山の代名詞的存在です。

信濃や会津と比較すると、「山々が連なっている」雰囲気は少ない薩摩。

その薩摩において、「単独の島」である桜島は、やはり圧倒的存在感を持ちます。

この「圧倒的存在感」を示している理由の一つは、桜島が活火山であることです。

時には、もうもうと煙をあげる日本で少ない活火山である桜島。

実際に、桜島は古来から何度か噴火した記録があり、かなり大きな被害をもたらしています。

噴火する山と噴火しない山では、存在感が全く違います。

この「活火山であること」が、桜島の存在感の最も大きな理由ですが、筆者はもう一つあると考えます。

それは、桜島が錦江湾にあり、「海と一体化した山」であることです。

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城山から桜島を見る(新歴史紀行)

上の写真は、城山から桜島を見た写真で、やはり海の存在は桜島にとって大きな存在です。

「薩摩の内海」とも言える錦江湾は、島津氏代々にとって象徴であると同時に海を身近にしました。

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錦江湾(新歴史紀行)

本来、海は広大なイメージで、「海の向こうは異国」です。

ところが、薩摩の象徴・桜島と「薩摩内海」錦江湾の存在によって、長年海と一体化してきた島津。

島津義弘

我が島津は、
これまでに異国と接してきたのだ!

戦国期以降、薩摩は「異国・海外と接してきた」ことで有名です。

おそらく、戦国以前、はるか昔から「ずっと異国・海外と接してきた」島津。

島津家の視野は、他の諸大名とは比較にならないほど、広かったと考えます。

重傷を負う大敗北の教訓を活かした島津義弘:伊東と島津の死闘

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仙巌園(新歴史紀行)
島津義弘

合戦ならば、この
島津義弘、自信があるのだ!

名前生年
毛利元就1497年
北条氏康1515年
今川義元1519年
武田信玄1521年
長尾景虎(上杉謙信)1530年
織田信長1534年
島津義弘1535年
羽柴(豊臣)秀吉1537年
徳川家康1543年
戦国大名の生年

信長とほぼ同年であり、秀吉や家康よりも年上の島津義弘。

守護・守護代・国衆(地侍)出身大名
守護島津家・武田家・大友家・今川家・大内家
守護代長尾家(上杉家)・朝倉家・尼子家・三好家
国衆(地侍)織田家・徳川家・毛利家・北条家・伊達家・(豊臣家)
戦国期の大名の家柄:守護・守護代・国衆(地侍)

もともと「鎌倉以来の守護」である超名門の島津家

ところが、超名門・島津家は他の諸大名同様に、戦国初期は弱体化していました。

島津義弘

とにかく、
戦い続けるのだ!

島津義弘

全ての島津の敵を
ぶち倒すのだ!

おそらく、若い頃から合戦の連続だった島津義弘。

父・貴久を補佐した後は、主君となった兄・義久をずっと補佐し続けました。

そして、1572年の木崎原の戦いで、300の兵で3,000の伊東義祐を倒した島津義弘。

伊東氏は、もともと日向に大きな勢力を持っている大名でしたが、3,000は寡少です。

さらに、当時、薩摩と大隈をほぼ領していた島津家にとって、300は寡兵過ぎます。

おそらく、双方にとっては「決戦」ではなく、「小競り合い」だったと思われる戦いでした。

島津義弘

小競り合いであろうと、
とにかく圧勝するのだ!

当時、38歳(数え年、以下同)で脂が乗る頃だった島津義弘は、「小さな戦いでも奮起する姿勢」でした。

実は、この木崎原の戦いでの圧勝の前に、島津義弘は苦い経験を持っています。

「木崎原」の6年前の1566年、この頃からすでに伊東氏と揉めていた島津家。

伊東義祐

島津を潰すために
ここに城を築こう・・・

大隈と日向の境に、新たに三ツ山城という城を、伊東氏は築城開始していました。

「城」と言っても、合戦のための「付け城」に近い戦略であり、砦に近い規模であったと思われます。

島津義弘

こんなところに、伊東の
城を築かれては堪らん!

島津義弘

者ども、出陣して伊東を倒し、
築城中の城を破壊するのだ!

当時、32歳だった義弘は、勇んで出陣しました。

伊東義祐

島津が
攻め込んできた、だと・・・

伊東義祐

小癪な!城は
大分出来ておる!

伊東義祐

迎撃して
叩き潰すのだ!

ところが、城(砦)はある程度完成していたため、攻城戦と野戦が合わさった形となり、

島津義弘

うむっ、
城と背後から挟撃か・・・

島津義弘は、伊東相手に大苦戦してしまいました。

島津義弘

ぐふっ、
ここは撤退だ・・・

挙げ句の果てに、大将だった島津義弘が重傷を負って撤退することになった、この戦い。

そして、しばらく傷が癒やすために療養中だった義弘は、

島津義弘

あの合戦では、
こうなって、ここで敵が・・・

敗北した伊東氏との戦いの地形、味方と敵の動きを反芻して、戦略を練りました。

島津義弘

あの桜島の如く、
堂々と、機敏に戦うのだ!

そして、自らも死にかけた合戦の教訓を活かし続けて、「若き闘神」島津義弘が誕生しました。

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