松岡洋右が若き頃に米国で受けた超衝撃〜「日本は支那の一つの州」という誤解・異様なほど巨大国家であり続けたアメリカ合衆国・50の強力な州の連合〜|陸海軍の迷走15・日米開戦と真珠湾へ

前回は「「信長+義経+謙信」目指した山本五十六〜乾坤一擲の大博打「真珠湾」・自ら作戦立案した山本長官・「真珠湾」想定して猛訓練〜」の話でした。

目次

異様なほど巨大国家であり続けたアメリカ合衆国:50の強力な州の連合

新歴史紀行
左上から時計回りに、山本五十六 連合艦隊司令長官、南雲忠一 第一航空艦隊司令長官、草鹿龍之介 第一航空艦隊参謀長、山口多聞 第二航空戦隊司令官(連合艦隊司令長官 別冊歴史読本 新人物往来社、Wikipedia)

1941年6月27日、対米戦前夜となっていた時代。

「対米戦絶対反対派」の急先鋒であり続けた山本五十六は、連合艦隊司令長官でした。

名前職責権限
永野修身軍令部総長軍令の最高意思決定者
及川古志郎海軍大臣軍政の最高意思決定者
山本五十六連合艦隊司令長官海戦の指揮者
帝国海軍スリー・トップ(真珠湾奇襲攻撃決定時)

「帝国海軍の顔」とも言って良い、連合艦隊司令長官。

当時の国民の目線から見て、「帝国海軍と言えば、山本長官」でした。

その一方で、海軍スリー・トップの中で、最も権限が小さい立場だった連合艦隊司令長官。

軍令・軍政においては、軍令部総長、海軍大臣がしっかり権限を握っていました。

山本五十六

米国に勝つのは
不可能だ!

若い頃から駐米経験があり、二度に渡り米国に駐在した山本五十六。

「帝国海軍最強の知米派」山本五十六に関する話を、上記リンクでご紹介しています。

駐米時代には、米国の油田調査に飛び回り、米国の新聞や資料を読み漁った山本。

山本五十六

米国の経済力や資源力は
我が国の比ではない・・・

明治維新から、猛烈な欧化政策によって、一気に世界の強国の一角に躍り出た大日本帝国。

山本五十六

だが、米国は違う・・・
違うのだ・・・

そもそも、大英帝国に独立戦争で独立してから、西に南に国土を拡大したアメリカ合衆国という国。

その正式名称は、United States of Americaであり、多数の州が連合した複合国家でした。

そもそも、考えようによっては「それぞれの州が国家でも良い」規模の米国。

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全米の州(Wikipedia)

州によって経済力は全くバラバラであり、現代ではカリフォルニア州GDPは日本を超えています。

もちろん、カリフォルニア州は「別格」ですが、そんな州が50も連合している米国という合衆国。

現在も当時も「異様なほど巨大な国家」でした。

そもそも、米国は「単一の国家」としてはルール違反なほど、強力な国家であり続けています。

松岡洋右が若き頃に米国で受けた超衝撃:「日本は支那の一つの州」という誤解

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海兵40期の同期:左上から時計回りに大西瀧治郎 航空本部総務部長、宇垣纏 連合艦隊参謀長、山口、福留繁 軍令部第一部長(連合艦隊司令長官 別冊歴史読本 新人物往社,Wikipedia)
山本五十六

米国に
どう勝てば良いのだ・・・

大西瀧治郎

なんとか、真珠湾で
魚雷を喰らわせる!

山口多聞

我が航空隊が米艦隊を
叩き潰す!

そして、1941年6月27日の頃は、鹿児島の錦江湾付近で猛訓練を続けていた連合艦隊。

錦江湾が選ばれた理由は、「真珠湾と地形が似ている」からでした。

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錦江湾(新歴史紀行)

確かに、周囲を大隅半島と薩摩半島に囲われた錦江湾は、島である真珠湾に似ています。

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1941年6月頃の日本政府・大本営幹部:左上から時計回りに、松岡洋右外相、近衛文麿首相、永野修身軍令部総長、杉山元参謀総長(Wikipedia)

そして、ちょうどこの頃、政府・大本営最高幹部たちは、世界の外交や戦争に関して話し合っていました。

地域覇者
西欧ドイツ
東亜大日本帝国
米州米国
ロシアソ連
「世界四大ブロック」の松岡構想
松岡洋右

ソ連と手を結び、
ドイツと三国同盟を締結・・・

松岡洋右

後は出来れば米国と
同盟したいが・・・

松岡洋右

私は米国という国を
よく知っている・・・

松岡洋右

米国という国は
「力が全て」だ・・・

松岡洋右

だから、こちらから
ガツンとやってやらねばならん!

米国に対しては、基本的に「強行姿勢」の発想だった松岡。

それは、松岡自身の米国時代の苦い経験にもありました。

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日清戦争(Wikipedia)

1880年に生まれ、日清戦争の頃、米国に留学していた松岡少年。

ちょうど15歳頃であり、現代の中学三年生から高校一年生頃で、「少年から青年の頃」でした。

ここで、松岡少年が当時、米国の人たちから聞かされた言葉は「信じられない」ことでした。

米国人S

なあ、Yosuke、
Japanって、Chinaの一つの州だろ?

米国人S

ってことはさ、今回の
JapanとChinaの戦争はさ・・・

米国人S

Japan州が、Chinaの
中央政府に反乱起こした、ってことだろ?

松岡洋右(15歳の頃)

!!!!!

米国人S

つまりさ、Japanは
中央政府のChinaには勝てっこないよな!

松岡洋右(15歳の頃)

!!!!!

松岡洋右(15歳の頃)

こ、こいつら・・・
我が大日本帝国を・・・

松岡洋右(15歳の頃)

我が大日本帝国が
「支那の州」だと?

松岡洋右(15歳の頃)

な、なんということだ・・・
我が大日本帝国の認識は、この程度か・・・

1895年頃の一般的な米国人の「日本に対する知識」は、この程度のものでした。

つまり、自分たち合衆国と同様に「日本は、中国合衆国の一つの州である」という認識でした。

この頃の「苦い」や「怒り」を超えて、衝撃的な経験をした松岡。

遠い、15歳の頃を思い出した松岡は、

松岡洋右

米国には
強く出るのだ!

松岡洋右

米国はソ連が
嫌いだ!

松岡洋右

ドイツがソ連に攻め込んだ
以上、北が先だ!

松岡洋右

そして我が大日本帝国が
東亜の覇者であることを示すのだ!

松岡洋右

東亜の覇者は、支那ではないことを、
米国の連中に知らしめるのだ!

米国での「苦すぎる経験」が、松岡を固定観念に大きな影響を与えていました。

そして、松岡構想の四つのブロックの一つである東亜に対して、松岡は執念を燃やしていました。

松岡洋右

我が大日本帝国が
東亜トップなのだ!

「東亜の覇者が、大日本帝国であること」を示すことを。

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