「十五代将軍」に不吉な影を感じた徳川慶喜〜御三家末席水戸出身の慶喜・吉宗が生んだ「将軍職は紀伊」の流れ水戸+一橋のパワー〜|徳川慶喜2・人物・エピソード

前回は「「徳川幕府の幕引役」を受けた徳川慶喜の実像〜「徳川の終わり」を暗示した桜田門外の変・曖昧な権限だった特別職「将軍後見職」〜」の話でした。

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徳川幕府第十五代将軍 徳川慶喜(国立国会図書館)
目次

御三家末席・水戸出身の慶喜:吉宗が生んだ「将軍職は紀伊」の流れ

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将軍家茂と補佐体制:左上から時計回りに、将軍 徳川家茂、将軍後見職 一橋慶喜、政事総裁職 松平慶永、京都守護職 松平容保 (Wikipedia)

1866年に念願の将軍職に就任した徳川慶喜。

徳川幕府第十五代将軍となり、本来は「第十四代将軍になるはずだった」慶喜。

一橋慶喜

前将軍家茂様を
一生懸命支えたのだが・・・

名前生年
徳川慶喜1837
徳川家茂1846
徳川家茂と徳川慶喜の生年

そもそも、9歳も年下であり、明らかに慶喜の方が頭脳も人物も上であったにも関わらず、

一橋慶喜

家茂様が紀伊出身であり、
私は水戸だから、か・・・

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徳川幕府第八代将軍 徳川吉宗(Wikipedia)
徳川吉宗

私が第八代将軍
徳川吉宗である!

徳川将軍家の嫡流は、第七代で絶えてしまい、代わりに御三家・紀伊から吉宗が将軍に就任しました。

石高(約)
尾張徳川62万石
紀伊徳川56万石
水戸徳川35万石

この時、「御三家筆頭の尾張徳川」と「御三家次席の紀伊徳川」の間で熾烈な「裏の戦い」が繰り広げられました。

この「将軍職をめぐる戦い」は、どう考えても尾張の方が分が良い戦いでした。

そもそも、御三家の中で尾張徳川は「最初に誕生し、石高も最大」の存在でした。

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戦国三大英雄:左上から反時計回りに、織田信長、羽柴(豊臣)秀吉、徳川家康(歴史群像シリーズ 図説・戦国武将118 学研、Wikipedia)

さらに、なんといっても、織田家の力の根源となった国であり、初代将軍・家康の故郷・三河の隣でした。

戦国期において尾張の存在感は絶大でしたが、江戸期に入り、だいぶ存在感が後退した尾張。

尾張・清洲城に関する話を、上記リンクでご紹介しています。

「存在感低下」とは言っても、単独の国で60万石を超えるという「極めて貴重な国」であったのが終わりでした。

ところが、吉宗によって「将軍職は紀州」という流れが出来てしまいました。

「十五代将軍」に不吉な影を感じた徳川慶喜:水戸+一橋のパワー

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皇居周辺(新歴史紀行)

吉宗によって、「将軍は紀伊」となりましたが、吉宗はさらに決め手をつくりました。

徳川吉宗

将軍家は
我が紀州が守るが・・・

徳川吉宗

念の為、
御三家の他に御三卿を設置する!

徳川御三卿

田安徳川家(田安家):10万石

一橋徳川家(一橋家):10万石

清水徳川家(清水家):10万石

新たに「御三卿」と呼ばれる家を3つ作った吉宗。

それぞれ「田安」徳川家、「一橋」徳川家、「清水」徳川家と呼ばれる3つの家は、10万石の格式でした。

ここで大事なことは、これら3つの家が「実際には領土がなく、格式のみ」であったことです。

つまり、事実上「架空の家柄」を生み出したのが将軍・吉宗でした。

ある意味で、鮮やかな政治力であったと思われます。

一橋慶喜

水戸は御三家末席で
「お呼びでない」ようだから・・・

一橋慶喜

主流である紀州・吉宗様が
設置した一橋家に入った・・・

徳川家に生まれた徳川慶喜は、「お呼びでない」水戸藩であることに危機感を感じていたのでしょう。

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水戸藩主 徳川斉昭(Wikipedia)
徳川斉昭

自慢ではないが、
我が子・慶喜の優秀さは際立っておる・・・

徳川斉昭

慶喜ならば、
将軍家になっても良いだろう・・・

徳川斉昭

我が子の贔屓目ではなく、
徳川のために、そう思うのだ・・・

徳川斉昭

そして、一人くらい
我が水戸から将軍を出したい・・・

こう考えた慶喜の父・斉昭は、慶喜を一橋家に入れました。

いわば、「水戸+一橋」のパワーによって将軍家を狙った斉昭。

大奥

あの徳川斉昭様って
好きになれない・・・

ところが、徳川斉昭自身が女癖の悪さなどから、大奥での評判は最悪であり、大問題でした。

大奥

どうしても斉昭様は
好きになれないけど・・・

大奥

確かに、慶喜様は
ハンサムだし、優秀でいいかも・・

ルックスが良く、若い頃から聡明だった「一橋」慶喜は、大奥でも高評価でしたが、

大奥

でも、やっぱり、
「斉昭様の子」はイヤ!

「斉昭の子」が致命的であり、慶喜は大奥からはよく思われない存在となってしまいました。

このような流れの中、ようやく第十五代将軍に就任した慶喜でしたが、

一橋慶喜

どうにも、
我が徳川家の力がダウンしている・・・

徳川家のパワーダウンに、極めて強い衝撃を受けていました。

自分自身の能力には、極めて高い自信を持っていた慶喜でしたが、

一橋慶喜

どうにか、ならぬか・・・
他の幕府はどうしたのだろうか・・・

年号出来事
1185年源頼朝、守護・地頭を設置
1192年源頼朝、征夷大将軍に就任:鎌倉幕府創設
1333年鎌倉幕府滅亡
1336年足利尊氏、征夷大将軍に就任:室町幕府開設
1573年室町幕府滅亡(諸説あり)
1603年徳川家康、征夷大将軍に就任:江戸幕府開設
1867年徳川幕府滅亡(大政奉還)
三つの幕府の始まりと終わり

我が国における「三つ目の幕府」であった徳川幕府。

幕末までは、「幕府」という名称はなかった説が有力ですが、「幕府のような国家体制」として三番目でした。

そして、慶喜が将軍に就任した1866年までの間、徳川幕府は260年以上続いた稀有な政権でした。

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第十五代足利将軍 足利義昭(Wikipedia)
一橋慶喜

そういえば、前の幕府の
室町幕府は十五代で終わったな・・・

「前幕府」であった室町幕府は、第十五代足利将軍 足利義昭で「ジ・エンド」となりました。

ここで、自身が「第十五代将軍」であることに、不吉な予感を慶喜は感じたでしょう。

ある種の「嫌な予感」を。

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