前回は「美しい瀬戸内海に魅了された藤堂高虎〜姉川で織田徳川と戦った若き頃・優美な木造建築の櫓たち・石落としで鉄砲攻撃〜」の話でした。
「強き者が世を治めるのは当然」の高虎流処世術:加藤清正との違い

美しく優美な水城である今治城。

藤堂高虎この藤堂高虎が、
今治城を築城した!
今治城は再建であるため、現存天守閣を持つ城と比較して、風情は少ないです。
・加藤清正
・藤堂高虎
筆者は、加藤清正と藤堂高虎の二人を「築城二巨頭」と呼びたいと考えます。





この清正は、
豊臣家こそが主人である!



秀頼様のためならば、
相手が誰であろうと戦う!
秀吉が木下藤吉郎と名乗っていた時代から仕え、「秀吉子飼」の武将だった加藤清正。





「関ヶ原」で徳川殿に
ついたのは、石田が悪だからだ!
ところが、事実上「豊臣vs徳川」の戦いであった「関ヶ原」では徳川についた加藤清正。
徳川軍・東軍の先鋒でもあった清正の盟友・福島正則と異なり、戦場には出なかった加藤清正。
この加藤清正の「関ヶ原不出陣」は、直前の文禄・慶長の役などが理由とされる説があります。
その一方で、筆者は、



佐吉(石田三成)は
絶対に許せん!



だが、徳川にはつくが、実際に戦場で、
佐吉や紀之介(大谷吉継)と戦うのは・・・



さらに、宇喜多中納言まで
石田方らしい・・・



それは、秀吉様の
お考えに反するのかも知れぬ・・・
清正なりの「微妙な思考」があり、熟慮の結果、「九州で待機」を選択したと思われます。



この高虎の出世は、
羽柴秀長様のおかげ!
それに対して、秀吉の弟・羽柴秀長によって立身出世した藤堂高虎。
ところが、戦国武将の中で、かなり己に自信を強く持っていた高虎は、



だが、そもそもは、
この高虎が有能だからだ!
「秀長に引き立てられた」のではなく、「自身の能力」を強く信じていました。



この高虎、次の時代は
家康様が治めるべき故・・・



豊臣攻撃に
全く躊躇なし!
そして、「豊臣と徳川の代理戦争」であった「関ヶ原」では、明確に徳川についたのでした。
このプロセスにおいて、高虎の姿勢は、



強き者が
世を治めるのは当然!
「強い力を持った者」が支配するのは当然という原理では一貫していました。
「際立った美」を持つ今治城:裏切り続けた藤堂家





この高虎、
新たな城づくりならば、天下一よ!





藤堂は、
実に有能だ・・・
徳川家康に取り入り、「豊臣派大名」だったにも関わらず、「徳川譜代大名」のようになった高虎。



この高虎、
徳川家のために尽くしますぞ!



高虎は
譜代大名ではないが・・・
そして、時代は流れて1614年となり、豊臣と徳川は戦うことになりました。



大坂の陣でも
徳川家のために!
さらに、「豊臣vs徳川」の最終決戦であった大坂の陣においても活躍した藤堂高虎。



藤堂には、さらに
徳川の中核になってもらう・・・



さらに領土を増やし、
京・山城を睨む伊勢を拠点とせよ!



伊勢の津において
藤堂藩32万石だ!



はっ!
有り難き幸せ!



この高虎、
そして藤堂家はどこまでも徳川家のために!
こうして、鮮やかすぎるほど「豊臣から徳川の中核」へと転身した藤堂高虎。
家康は徳川家の支配体制において、親藩大名・譜代大名・外様大名と明確に色分けしました。
それは、若い頃から「苦汁を呑まされ続けた」家康ならではの「家康流処世術」でした。



高虎は譜代には
出来んが・・・・



外様とは
別の「別格譜代」としよう!



はっ、必ずや
我が藤堂は徳川に尽くします!
家康は、藤堂家は特別な「別格譜代」とした説があります。
この転身は、日本人的な「忠義の姿勢」とは完全に相反する姿勢でした。


この「高虎流処世術」だけでも、日本人には合わない上に、決定的だったのは幕末でした。


官軍に錦の御旗が立った後、「謎の賊軍」となった幕軍は必死に戦いましたが、



我が藤堂藩は、
新官軍につく!



もはや
徳川幕府は終わりよ!
藤堂藩は、早々に徳川幕府に見切りをつけて、新政府軍につきました。



やれやれ・・・
高虎以来の藤堂家らしいな・・・



藤堂は、裏切るのが
得意だからな・・・
このように揶揄された藤堂藩。


それにしても美しすぎるのが、この今治城です。
もし、高虎が、もう少し「転身しすぎず、評判の良い武将」だったならば。
それは「ifの歴史」となりますが、この海水城・今治城の城郭デザインは、日本に広まったと考えます。
それほど、卓越した「際立った美を持つ」城郭であるのが今治城です。
次回は上記リンクです。


