前回は「戦艦の戦術と設計を考え続けた「黄金仮面」宇垣纏〜超弩級戦艦に夢を賭けた宇垣・帝国海軍航空隊「育ての親」山本五十六〜」の話でした。

「ジェントルマン」の帝国海軍軍人:引き裂かれた帝国陸海軍

第二次世界大戦(太平洋戦争)に敗北した直後に解体された、帝国陸海軍。
どの国でも陸海軍は険悪ですが、帝国陸海軍の仲は「険悪を超えた」異常な仲だったようです。
この「帝国陸海軍の不仲」の原因は、それぞれが「全く異なった規範を求めた」ことが原因の一つです。
| 帝国陸海軍 | 国家名 | 
| 陸軍 | フランス(後にドイツ) | 
| 海軍 | 大英帝国 | 
欧米やソ連の陸海軍は、外国から学ぶことがあっても、「それぞれの国の雰囲気」が根幹にありました。
それに対して、当初は「海外から全てを直輸入」して成立したのが大日本帝国の陸海軍でした。
 帝国陸軍
帝国陸軍我が帝国陸軍は、
フランスを範とする!



我が帝国海軍は、
大英帝国を範とする!
「帝国陸軍はフランスが模範」であり、「帝国海軍は大英帝国が模範」でした。
そのため、「同じ大日本帝国の軍隊」であったのに、陸海軍は「異なる国家」のようになりました。





帝国海軍軍人は、
ジェントルマンたれ!
とにかく「大英帝国流」であった帝国海軍では、「ジェントルマンであること」が最も求められました。
そして、海軍兵学校では、若者たちに「ジェントルマンになる」ように教育しました。





帝国陸軍の将校は、
超エリートなのだ!
それに対して、帝国陸軍では「超エリート」であることが刷り込まれた帝国陸軍将校たち。
陸軍士官学校では、「超エリートである」ことが繰り返し指導されました。
「フランス流vs英国流」の相違に「超エリートvsジェントルマン」が加わり、巨大な相違が生まれました。
その結果、帝国陸海軍は「引き裂かれた」と表現しても良いでしょう。
「強面度」No.1だった宇垣纏:「帝国海軍戦艦の超集大成」戦艦武蔵


この巨大な相違のためか、帝国陸軍軍人には、比較的「強面の将校」が多いです。
それに対して、帝国海軍軍人には「強面の将校」は少なく、どことなく穏やかな雰囲気があります。
若い頃から問題児だった小沢治三郎は、少し強面ですが、陸軍将校よりも柔和な雰囲気です。
小沢治三郎に関する話を、上記リンクでご紹介しています。



この宇垣纏が
帝国海軍の戦艦を指揮するのだ!
そして、「強面度」では、おそらく帝国海軍No.1である宇垣纏。
宇垣纏は、海軍兵学校と同時に陸軍士官学校を受験し、両方に合格する快挙を果たしました。
| 設置年 | 大学名 | 
| 1868年 | 陸軍士官学校(前身の兵学校) | 
| 1869年 | 海軍兵学校(前身の海軍操練所) | 
| 1877年 | 東京帝国大学(帝国大学) | 
| 1897年 | 京都帝国大学 | 
| 1907年 | 東北帝国大学 | 
| 1911年 | 九州帝国大学 | 
| 1918年 | 北海道帝国大学 | 
| 1924年 | 京城帝国大学(韓国、のちに廃止) | 
| 1928年 | 台北帝国大学(台湾、のちに廃止) | 
| 1931年 | 大阪帝国大学 | 
| 1939年 | 名古屋帝国大学 | 
現代の大学受験では東大が筆頭ですが、軍人が国家の根幹であった大正から昭和初期は異なりました。
陸軍士官学校と海軍兵学校は超難関であり、東大よりも難関だった説があります。
それにも関わらず、「海兵と陸士両方合格」を果たした宇垣は極めて優秀でした。
そして、「陸士にも合格した」点が、「帝国陸軍らしい雰囲気」も併せ持った理由かもしれません。


1922年に空母鳳翔を進水させ、その後次々と空母を建造、改造し続けた帝国海軍。



確かに空母航空隊は
強力な力になりうる・・・



だが、海戦は戦艦の
砲撃で最終的に決まるのだ!



そのためには、超巨大戦艦を
我が帝国海軍が持つのだ!
時代は「戦艦から空母へ」と移行する時期に、帝国海軍で実務を続けていた宇垣。
宇垣にとって「大艦巨砲主義」は、信念を超えた「超信念」でした。
まさに、「大艦巨砲主義という概念を人間にした」ような存在であった宇垣は、



とにかく、不沈の
超巨大戦艦で敵を倒す!



巨大な砲弾による
砲撃で、敵を一瞬で倒して見せよう!


1938年、48歳ころの脂が乗り切った時期に軍令部第一部長に就任した宇垣。
前線の指揮官として模範的であった宇垣は、「軍令の事実上トップ」も適任でした。
この頃は、まだ日米関係が良好でしたが、帝国陸軍がドイツに傾倒しつつあった時期でした。



我が帝国が、米英を
倒しうる戦力をつけるのだ!





戦艦大和に続き、
戦艦武蔵を建造する!
1937年に建造が始まっていた戦艦大和は、さらに改良が加えられ「大和型」の建造が予定されていました。
その「大和型」二号が戦艦武蔵でした。
この頃、ちょうど軍令部第一部長であった宇垣は、武蔵の建造にかなり関わったと考えます。



戦艦は第一に砲撃だが、
速力も重要だ・・・



砲撃を的確に加えるには、
砲台をこのようにして・・・
綿密に考えることが好きであった宇垣は、細かく検討を加えたでしょう。
そして、戦艦武蔵は「帝国海軍戦艦の超集大成」となりました。


